安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

2018/06/26 火曜日 晴れ、気温は30度近くまで上がった。暑さにちょっとへばる。

また2ヶ月が過ぎたようだ。
なんだな、このブログはそういう頻度ってことか。
週末、ちゃまこがやってきたのである。
ちゃまこ、彼女は私の大切な飲み友達である。
ちゃまこ、本名は昌子。
まちゃこと呼び習わして長い。
大学時代からだとすると40年以上か。いや、待て、学生時代は「石崎さん」って呼んでたな。
大学時代はそんなに仲良しじゃなかった。語学クラスでいっしょの、大学時代の一番の仲良しだった黒ちゃんの下宿仲間としての石崎さんだった。
いつからこんなに仲良くなったのか。
ま、彼女が松山に住んでるってことが大きな理由だろう。
京都からこっちへ来て友達作れなかったからなあ。
まちゃこと数ヶ月に一度松山の夜の町をはしご酒しながら経巡るのが私の生きる大きな張りだったもんなぁ。
ありがたかったよ、あんたがいてくれてほんと助かった。
不運にへたばった時期もまちゃこがいてくれてなんとか沈没しきらずに済んだのかも。そういうこともあったな。

40年付き合って、今はお互いなくてはならない飲み友達だと思ってる。
昨日、黒ちゃんから手紙が来たんだよね。
3月頃に私が出していた手紙への返事だ。
15年くらい前から私とは話が合わないと感じ始めてたんだって。
それで私の前からフェイドアウトしようって思ってたって書いてあった。

数年前からちゃまこやまきまきたちと京都で飲む機会に私がなぜか呼ばれなくなって、あれ?なんでだろ?と不審に思いつつ、
仲間はずれされてるなんてまったく想像も出来ず、単なるタイミングの問題だろって判断してたけど、黒ちゃんが私とは会いたくないと思っての結果だったことをはっきりと
知ったのが半年ほど前で、3月に手紙を出したって訳だった。

本日の記事にそのことを記す気力はない。
ただ、まちゃことあった直後に黒ちゃんから手紙が届いたこと、そのちょっとした偶然を記しただけ。

そうそう、で、まちゃこのことを半年ほど前からちゃまこと呼ぶことにしたのね。
「カルテット」に出てきた、あの茶馬子から拝借しただけなんだけど。

まちゃこは私の別のブログにもしばしば登場する。
ブログの中で彼女の活躍はめざましい。なんせ友達の少ない私のブログの中で友達の話題といえばまちゃこに偏ってしまうわけだからな。
そして、ブログというのは、一種の創作でもある。そのエチュードってかんじでもある。
ブログの中のまちゃこは、昌子ではないわけだ。それをちゃまこにするってことはますます昌子から離れて自由になるってことかな。
そんな感じです。

そのちゃまこが週末松山より来る、また楽しからずや、の夜を過ごした。

その週末の二日間のことを語ろうとこのページを開いたのに、前振りだけで疲れてしまった。やれやれ(これはちゃまこの好きな村上春樹風に)
次回は2ヶ月後。
諸君、また会おう。

2018/4/22  日曜日 晴れ 日本中晴れの、初夏のような陽気らしい。

前回記事が2月22日になっているところを見ると丸2か月記事の更新を怠っていたらしい。
さぁて、この2か月何があったのやら。
何もなかったわけではない。
おそらく、地味な人生を歩んできたミモザ当人にとっては相当劇的な瞬間もあったのであったが、それを記す“気”が湧いてこなかった結果、丸2か月の空白(ブランク)になった。
そして、思い出して記しておこうという気ももはや湧いてきそうになく、この2カ月はなかったもののようにして、4月の下旬に差し掛かった今日の気持ちで書きはじめるとするか。

日曜日にはあれもしようこれもしようと、木曜日辺りからは目の前に差し迫った「仕事」に対して、日曜日に片付けてしまおう思いがち。
日曜日には素晴らしい時間の塊が用意されているように思えて、今(木曜日の午後あたり)気忙しい中で無理して手を出さなくってもよいだろうと思いがち。
そして、今(日曜日の午後)なんだけど、木曜日辺りから、日曜日にしようと思っていたことのひとかけらもできていないのであった。
それは今週に限ったことではなく、50歳ごろからもう12年ほどの間ほとんど毎週毎週毎週毎週同じような心持で暮らしているような気がする(ありがたいことに、記憶はどんどんうすらぼんやりしていくので、10年前のことはそんなにはっきり、そうだった!と言いきれるような形で覚えているわけではないので、悔恨の痛みもうすらぼんやり。だから気がする程度)。

今日の日曜日も何も出来ぬまま終わりそうであるな。
来週にはゴルデンな連休に突入する。
多分正真正銘の素晴らしい時間の塊が用意されているだろうから、そのときにこのところの懸案事項はすっきり完遂できる事であろう。

4月22日。ゴルデンなウィークを控えて余裕のある日曜日の午後の怠惰な気分を記しておきました。
1週間後の気分と比較検討する資料として。

父、母からもらったもの

父と母にもらったもの
この正月に実家へ帰ったら、母が体調を崩してすっかり弱気になっていた。八十七歳というのはすっかりおばあさんの年齢なのだと改めて思う。イメージの中の母は常に五十代で、母のそばにいる私はいつまで経っても十代後半の甘えん坊の末っ子であることを許され、ときどきはそれが義務のように感じることもなくはなかったが、大半は許される心地よさを甘受していた。その気分のままに帰省してみると、母の急な老いを目の当たりにし、実家の実権は兄の奥さんに移っていた。実家はもう嫁に出た私の家ではなく、嫁に入った人の営む新しい家庭の場となり、そこから嫁に出た姪たちを迎えるための実家になっているのだと遅まきながら痛感した。やっと気づいたかと兄のお嫁さんの立場なら思うところだろう。
 兄は下に私を含む三人の妹をもつ総領息子である。兄が結婚したいという女性を我が家へ初めて連れてきたとき、その女性がとても細くて弱々しく見えることが両親にとって不満だった。
 私たちの家族、特に女性軍である母と三人の娘たちは皆体が丈夫でパワフルである。兄も父もどちらかというと細身でおとなしげに見えるのとは対照的に女たちは全員ピチピチで元気でかしましい。母は同類のお嫁さんが欲しかったのだろう。一方兄にしてみたら、それこそうるさい女どもに囲まれ、圧倒されてきた恨みが、恋人を選択するときに意識的あるいは無意識的に正反対のタイプの女性を選ばせたのかもしれない。兄の恋人が母の気に入らないタイプであることは必然であり宿命であったのだ。
 多少は両親の気に入らないとはいえ、兄とその女性の結婚は成り、兄嫁であるY子さんは我が家の一員となった。体こそ細くて一見弱々しく見えるが内面はしっかりもので、兄は忽ちY子さんの「尻に敷かれる」状態となり夫婦は大変円満に今も仲良く暮らしている。
 自分の母親というのは客観的にはなかなか見られない。私にとっての母は、母親として素晴らしい人である。家事能力は完璧に近い。まず料理が上手。掃除も瞬く間にどこもここもぴかぴかに磨きたててしまう。ことに洗濯好きで母の手にかかるとどれもこれも真っ白にされてしまう。我が家では雑巾すらぼろぼろになるまで真っ白だった。体が丈夫でじっとしているのが嫌いなせいか主婦としては一級の能力を存分に発揮した結果だと思う。性格は明るく前向きで超楽天的。やや気性が激しいところが見え隠れしないでもないが家族がそのためにうんざりさせられるという場面は一度も目にしたことがない。
 母の母がとても激しい気性の持ち主で、その夫と互角にやり合わないと気がすまなく、母の幼い日の記憶は常に両親の諍う怒声で気が休まらないという辛さに満ちていたらしい。この記憶が母の本来の気性の激しさをかなり抑制しているように思える。
 目の当たりにした事のない母の気性の激しさをなぜ私が母の本来持っている性質であろうと思うのかというと、母の弟妹たちが皆そうだからである。母の弟妹たちは母の両親(祖母ばかりでなく祖父もまたかなり気性の激しい人だった)の性質をしっかりと受け継いでいるように見える。あるものは商売を成功させるというかたちで、あるものはたびたびの暴力沙汰というかたちで、あるものは兄弟間の諍いというかたちでその気性の激しさを見せてくれていた。とにかく母の弟妹たちは一般的な人たちではなかったことは確かである。叔父や叔母を見ていると母も本来は似たりよったりの性質を持っているのだろうと推測してしまう。けれど、母はまだ一度もそんな一般的でない本性を見せて私たちを驚かせたりしたことはない。それは母がその母親を反面教師にしたことと併せて父がとても穏やかな人だったからだろうと思う。父と母は静と動としてそれぞれがはっきりと全然違うタイプの人だった。
 父は幼いときに父親を亡くし、洗うが如き赤貧の中で育ったという。多分日本全体がまだまだ貧しかった時代の中でも最底辺を這いずり回るような生活だったのだろうと思われる。その時代のことをもっと父から聞いておきたかったと後悔するのだが、断片として私が父の口から聞いた言葉を書き残しておこう。
あるときTVのコマーシャルを見ていた父が(そのコマーシャルは生命保険会社のもので、年老いて豊かな暮らし振りの美しい老年夫婦が楽しげにダンスをしているというもの)、画面の中のにっこりと上品に微笑んでいる老婦人を指して、「お父さんが一番嫌いな日本人の顔や」と言ったのだ。その言葉は父の貧しかった時代に受けた屈辱的な記憶から発せられたものらしいと思えた。その老婦人に似た女性に深い心の傷を負わされるような出来事があったのではないだろうか。
 父は在日韓国人であった。戦前の日本でそういう出自の人間が当然のように味わったであろう屈辱については殆ど何も語ることはなかった。だから余計にそのなんでもないコマーシャルのシーンに漏らした父の、そんなに強くもない言葉が私には深く残っているのだろう。父は日本人のお金持ちの老婦人から忘れられないような屈辱を受けたことがあるのかもしれない。その屈辱は父のひどい貧しさゆえだったのだろうと私は想像する。なぜなら父の本質には他人から屈辱を受けねばならないような卑しいものはなかった筈だと私には思えるから。父はただ短く、「このコマーシャル、嫌いや」と言っただけだった。私がもう少し利発な子であったなら、この時にもっと父の話をせがんで私の中の父の言葉貯金を増やすことができたかもしれないのにと残念に思う。
貧乏の極致でさまようように暮らしていた父は北陸の片田舎で母の家族と出会い、人柄を見込まれてその一家の長女の婿となった。その頃母の家は祖父が多少の商才に恵まれていたこともあり、韓国人家庭としては裕福な暮らし向きだったという。
両親の婚礼写真がある。背広を着た父と韓国の民族服を着た母は、娘のひいき目かも知れないがなかなかの美男美女なのである。若き日の加藤剛と「キューポラのある街」のちょっとぽっちゃりした吉永小百合に見立てても、まあ、娘のひいき目だからと笑って済ませてもらえる範囲の美男美女ぶりなのである。雪深い北陸の寒村で妻を得た父の喜びをその写真の中に見いだそうとしてもなかなか難しい。加藤剛ハムレットを演じたらこうでもあろうか。母もまた思い詰めたような吉永小百合である。
 その後父と母は新天地を求めて北陸の田舎から京都へ出ることになる。父と母が京都に居を構えると母の弟妹達も姉夫婦を頼って次々と京都へやってきた。父はあまり一般的ではない性質を持った妻の弟妹たちの面倒をよく見、貧乏生活の中にあっても決して迷惑がらずに彼らをできる限り保護した。この父の行為については私自身が大人になるにしたがって、誰にでもできることではないということが徐々にわかっていった。父の特別に人情深い、誠実な人柄ゆえにできたことなのだ。
 これはつい先日の帰省の際に母の末妹から聞いた話なのだが、母の両親がその最晩年に北朝鮮に住む自分たちの長男(昭和三十年代に始まった帰国事業で一家で移住していた)の元へ行くことを望み、娘や息子たちの激しい反対にもかかわらず、死ぬ時は長男のそばで死なせてほしいという言葉に皆がその希望を泣く泣く聞き入れ、新潟の港からかの地へ旅発つときのこと。父はその義理の妹の肩を抱いて「お前の両親とのこれが今生の別れだ、覚悟しておけ」と言いながら義理の息子である父はその両親との別れに、その場にいた実の娘や息子たちの誰よりも激しく泣いたのだそうだ。そのときのをこの叔母は、あんたらのお父さんはほんまに優しい人やったんやでぇと語って聞かせてくれた。
 ある一面でこんなことも考えたことがある。父と母は対照的であり相互補足的な組み合わせであったのかもしれないと。 父は誠実でまじめでどちらかといえば世の中の片隅に追いやられるようなタイプの人だった。一方母は明るくて賑やかで精力的であるが少しがさつ、でも、絶対貧乏くじは引かないようなタイプの人。父は自分の持っている運の悪さのようなものが母によって救われていると感じていたのではないか。また母は母で一般的ではない自分のそれまでの家族の短所にうんざりしつつも自分の中にも確かにある一般的でない激しさを父のまじめさ穏やかさが抑えてくれていると感じていたのではないか。事実私の両親はとても健全で穏やかな家庭を築くことに成功したと思う。我が家を襲う嵐はいつも母の弟妹たちが惹き起こす問題から発生することばかりだった。
 十歳までを過ごした京都の壬生の家は貧乏長屋ながらそこは親鳥にしっかり守られた暖かな巣であったと私の心象の中の記憶に残っている。そこでの暮らしにつらい記憶は何もない。父と母が築いた家庭が素晴らしかったという証なのだとこの年になった私はしみじみと思い返すことができる。その長屋を出て、郊外に小さいながらも父は自分の家を建て、そこが父の終の棲家となった。
兄が結婚して四十五年。私が結婚して三十五年。実家の近くで暮らしていた兄夫婦が同居するようになって二十年。この歳月の間に父が逝き母は年老いていく。この正月に帰省してみると母の弱り方が一段と加速し、兄の奥さんがその分強くなっていたというわけだ。
 母への言葉の調子がきつすぎないかしら?
もう少し優しい物言いをしてもらいたい、などと小姑は思ってしまう。
「Y子さんはようやってくれてはるえ、お兄ちゃんが頼りない分あの人もあれくらい強うならんとやっていけへんのやろなあ」とほんのり笑いながら母は言う。
 実家を遠く離れて嫁いだ私が偶の帰省の折に見聞きする断片からの感情で安易に口出しなどしてはならないのかもしれない。兄が築いた家庭にも私の知らない歴史があるのだ。姪たちは二人とも父や母にとても優しかった。晩年ボケた父の食べこぼしたものを自然に自分の口の中へ入れることができるような孫たちだった。それだけでもY子さんには感謝しなければならない。今度の帰省の折にはきっと伝えようと思う。
 私にもし、人から褒められるような美点があるとしたらそれは全部父と母が私に躾けてくれたものだ。親の人生を肯定することはささやかな人生の主人たる小さき人間の出来うる偉大な仕事のように私は思う。母の明るさ、たくましさを私も受け継げているだろうか。

私の東京

高校時代の親友が東京の大学へ行ったので、大学時代は時々東京へ遊びに行った。

彼女は父親の転勤でそれまでにも横浜や東京近辺で暮らした経験もあり、またお姉さんもその当時日吉に住んでいたりで、他の東京初体験新入生より余裕で新生活をはじめていたみたい(に私には見えた)。
遊びに行くと、いろいろなところへ私を連れて行ってくれた。
あ、そういえば彼女は高校時代から私を私の知らないところへよく連れて行ってくれたんだ。ステキな喫茶店とか、美術館とかね。

渋谷の、あまり人の知らなさそうな雑貨屋で、京都では見かけないような不思議な、妙な雑貨を見て歩くのが楽しかった。とても着れそうにない変な柄の水着や、使い道のない小さな壷とか、マッチ箱のケースとかを買ったりしたな。

歌舞伎町も二人で歩いた。
「ここはね、道の真中歩かないとだめなんだよ。端っこ歩いてたら、急に腕を引っ張られて、気が付いたらフィリピン、とかいうことがあるんだってー」と彼女は教えてくれて、二人でしっかり腕を組んで道のど真ん中を緊張して歩いた。19歳の私たち。


二人で行った山陰旅行で知り合った東京の大学に通う男の子と彼女は何度か東京でデートしたりしていたけど、その男の子から好意あふれる手紙を私は受け取っていた。
彼女がその男の子を特別に好きではないということを私は知っていたけど、それでもなんだかうしろめたい気持ちにさせられた。

20歳の夏休み、私は一人で東京へ行った。
その男の子と二人だけで会った。
彼女が夏休みで帰省している隙を狙ったような上京だった。
20歳の私は、全然うぶ子ちゃんで、好きという感情と20歳の女性がとるべき行動のバランスを欠いていたと思う。
その男の子は戸惑っただろう。ま、それだけのこと。

22歳。
私は大学のゼミで出会った演劇青年と奇跡のような恋をしていた。
演劇青年の知り合いの劇団の公演を見るために東京まで行った。
池袋の文芸座地下の「ル・ピリエ」という芝居小屋。


結婚してから、数年後私は一人東京ツアーを再開した。
田舎になじめない。田舎大嫌い人間と化した私は年に一回ぐらい東京の空気を吸わないと死んでしまうような気がする自分を、なにかをごまかすために演出していただけかもしれない。

その当時の自分を分析したらもっといっぱい書けるけど、この日記の本論とはずれるので割愛。
とにかく娘が小学校の低学年くらいになったら、一年に一回くらいの割合で一人で東京へ遊びに行くようになった。

田舎の薄汚れた空気に毒されたくたびれ主婦は、東京のおしゃれな雑貨屋めぐりを楽しむこともできる、と自分に言い聞かせることで何を守っているつもりになっていたのか。
小難しいことはええわ。
とにかくその頃の私は、一年に一度東京へ出かけ、お芝居を見、おしゃれな雑貨屋やインテリアショップを見て歩き、生活に何の役にも立たないガラクタを買って歩いていた。

娘が拒食症になりそんなことをする精神的余裕も経済的余裕もなくなった。


娘が中学2年の1月(それは拒食症の発症から10ヵ月後くらいだったか)、気分転換にと二人で東京へ遊びに行った。
私は神田の古本屋で古いテレビドラマのシナリオを探したかった。
娘は渋谷でショッピングと2時間くらいの別行動時間をとった。

約束の場所に行くと、その2時間大量に果物やパンを買い込んで道端で食べていたという娘がそこで泣きながら待っていた。

拒食症から過食症に移行していくその境目を、東京の渋谷の雑踏の中で、はっきりと見せられることになってしまった。

その待ち合わせ場所に向かう前にほんの数十分、私は一人で喫茶店に入った。東京で一人でコーヒーを飲んでいるシチュエーションを楽しんだ。
それからの数年間、その直後に私が見たものとの対比として、その喫茶店での数10分を何度も何度も思い出した。何の意味もないけど何度も思い出してしまった。

それからたくさんの時間が流れた。

東京はもう私にとってどうでもいい街になった。

それからまた少し時間が流れた。

いま、東京に数人の大切な友達がいる。
ネットで知り合った人たち。

まだ一度しか会ったことがなかったり、一度も会ったことがなかったりの人たちだけど、とても大切だな-と思える人たち。

そして、東京での観劇も再開している。

また東京が私を呼ぶようになった。
遊びにおいでえーと誘ってくれる。

行ける範囲で会いに行くよ、東京。



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名作文

こないだの帰省の折、母から聞いたこと。

昔話の中で。

父は在日韓国人(母も同じく。つまり私は在日韓国人。今は結婚して国籍は日本人であるが)で、そんな父の友人の話です。
娘から見て父親の交友関係って正確にはつかめていないから、友人と言ってもどの程度の親密さであったかとかはよくわからない。

私の記憶としては、その人は我が家では「せんさん」と呼ばれていました。
「せん」が名前の一部なのか、韓国の姓なのかもわからないです。
ちょっとひょうきんなおっちゃんでした。
言葉には韓国訛りがかなり残っていて、風貌もいかにも韓国人っぽい人です。
ええと、「パッチギ」にでてきた笹野高史風といえばわかりやすいか。私はこの人のこと嫌いじゃなかったです。

まだ壬生に住んでいたころ、せんさん一家も近くに住んでいたようで、母が買物帰りなどにせんさんの家に立ち寄ってせんさんの奥さんと玄関先で話している情景が思い出せます。
せんさんはビニールのカバンを自宅の一部を作業場にして簡単な機械で製造するという仕事をしていた。小学生がプールに持っていく、透明な袋ね。
貧乏してはるのが子どもの目から見てもわかりました。
私と同い年の女の子がいて、その子が長女でその下に男の子が二人いたように思う。
奥さんが貧乏を嘆くような口ぶりで母に愚痴を言っていたような気がする。

せんさんは我が家に来て、父とお酒を飲んでいることもあったかもしれません。そのときも浮世の辛さを酒に紛らすような、そんな飲み方、喋り方のかすかな記憶。

父にはそういう似たような境遇の友人が何人かいたように思う。
みな貧乏で、訛りが強く、パッチギの住人のような人たち。

そんな友人たちの中で、父は娘のひいき目もあるのかもしれないけど、しゅっとした(関西弁でスマートなって感じ?)人で、そして何より不思議なのが父にはまったく訛りがなかったんです。
読み書きができない人もいました。せんさんもそうでした。
少し大きくなると、我が家に出入りするそういう人たちが、いろんな書類を父に代筆してもらいに来ているということもわかってきました。
父は小学校もまともに出ていないけれど独学で高卒程度の学力があり、働きながら大学に聴講生で通った時期もあったそうです。父は学校の先生になりたかった、というのを聞いたことがあります。いかにもその職業が似合ってそうな人でした。貧乏がそうはさせてくれなかったんでしょうね。
母との昔話の中で、改めて父の人となりに触れ、父の人格を誇りに思ったり、懐かしさ、恋しさを新たにしたり・・・
でも、今日の話はせんさんのことね。

西京極に引越ししたことでせんさんとも少し疎遠になりました。
せんさんが一念発起で中華料理店を始めたこと、それが思いのほか成功しているという話を父母の会話から漏れ聞いたりしていました。

もう30代後半か40代になっていたかもしれないその時期からの転身は大変な苦労があったんだろうなぁと今そんな話を思い出して考えます。

成功したせんさんの店に両親と私と3人で行きました。
すごく印象に残っているのは、その日が高校の合格発表の日だったこと。

お店は繁盛していて私と同い年の長女が立派にお手伝いをしていました。
高校へは行かずお店の手伝いをすることを奥さんがうれしそうに話し、その女の子もそれを誇らしそうにしていたのが、私には驚きだったわけですが、それはどんな驚きだったんだろうね。うまく思い出せない。ええと、その女の子がすごく美人になってたことも驚きだったんだけど、それもどんな気持ちでそれを見ていたのかうまく思い出せないんだけどね。でもなんだかとても印象的な夜でした。

それからまた数年が過ぎて、何かの折に、母がせんさんの美人の娘さんに縁談を持って行ったら、もう決まった人がいるらしい、とかそんな話を漏れ聞いた記憶が一つ。
その後はもうせんさんにまつわる話は思い出せない。

で、今回母との昔話でせんさんの話を聞くことになりました。

せんさんはその後もお店は順調に繁盛し、息子さんが跡を継ぎ・・・
そうこうしていたらお店が道路拡張に伴い立ち退きになり、それがバブルの絶頂期で、法外な立ち退き料をせんさんは手にすることになった。

立ち退き後の店舗も確保でき、それでも余りある財産を作ることができ、やれやれという矢先、せんさんは急死されたそうです。トイレで倒れ、そのまま。
20年くらい前の話。そうか、せんさんそういう亡くなり方やったのか・・・

「もうせんさんの家族が今はどうなってはるか全然知らんのんえ」と母はこの話を締めくくろうとして、思い出しついでにこんな話をしてくれた。
「せんさん言うたら、あんた覚えてるか?」
と面白そうに話し出したんだけど、全然私は覚えていない話だった。
せんさんは我が家に来ると末っ子の私をよくからかっていたそうです。
ミモザちゃんは橋の下に捨てられてたんをおっちゃんがひろてきてこの家に預けたんやでぇ」
来るとせんさんはいつも私にそう言って私を泣かしてたんだって。
覚えてないなぁ。私はせんさんになついてて、ひょうきんなこのおっちゃんによく笑わしてもらってたと思ってたんだけど。
で、その話を学校の作文に私が書いたんだって。

その話がおもしろいて先生に褒められたやん。おかあさん、よう覚えてるえ~、あんた覚えてへんのかいな。

へええ、どんなこと書いたんだろ?
そのつづり方(作文ではなくつづり方と母は言った)読んでみたいなぁ。

我が母は子どものそういうものをきちんと保存しておく人ではなかったのでどこにもありません。

ミモザ、一世一代の名作文だったかもしれんのになぁ。

本音なの、それ。

SNSで知り合った同年齢の女性のブログにご夫婦二人旅のアルバムが公開されていた。

パパと一緒に東京のカフェめぐり。こんな旅に付き合ってくれて、パパも結構楽しんでくれてとっても楽しかった、云々

私は、夫との二人旅などごめんだなぁ、と思う。

ちっとも行きたいなんて思わない。だからちっともうらやましくなんかないはずなのに、そのブログのなかの、楽しそうな夫婦の笑顔がふと思い出されて、胸の中が嫌な感情に満たされて、それって妬みって感情なんじゃないの?と自問して、答えを知らんぷりにして、その映像を無理やり消したりなどしている。

東京のカフェめぐりは一人でするよ。
だいたい私はタバコ吸いたいしダンナは吸わないし、だいたい東京のおしゃれなカフェは禁煙だろうし、だいたい、もうおしゃれなカフェなんかめぐりたくなかったんだった、などと思いめぐらして自嘲したりしてみる。

お芝居見て、そのあと居酒屋を付き合ってくれる友人が一人か二人いたらそれで東京の旅は十分に楽しい。
5年前まで付き合ってた男を呼び出すことだってできるしさ。
5年前まで付き合ってたってのは嘘で今も彼の方は付き合ってるつもりなんだろうけれど、私がもう男の前で裸になるのが嫌で、裸になってすることにも気が進まなくて、東京へ出かけることはあっても男には知らせなくなっている。(そのために、SNSで彼が私の日記を見られないようにしてある。)

安寧なんか欲しがりません、の安寧ってのはさ、単に夫婦仲良く老いる老後のことだったりするのかな、私のイメージとして。
だとしたら、すごくつまらないなぁ。
そんなことはもうすっかり乗り越えられているつもりなんだけど。

安寧なんか欲しがらないって生き方は、そんなこと言ってるつもりじゃなくて・・・


だからさ、夫婦仲良く旅してる人を妬むって、それ、あんまりな裏切りなんですけど。

品位

父母に対する尊敬というものは、公文にとって、人生の基本的な品位に関わるものであった。

というのは昨夜読んでいた小説の一節なのだけれど、この一文をすっと読み過ごすことができず、その前後も含めて何度も読みかえしてしまった。
とても心に響いたわけです。

公文某という主人公の男は40代の半ばを過ぎて独身で、過去に結婚式を挙げるというところまで行った女がいたけれど母親の気に入らず、結局100日ほどの同居の後、入籍もしないまま別れたという経験があった。
その女性視点の文章の中で公文という男は、恋人より母親を選んだマザコン男と断じられている。
まあそれも間違ってはいない評価だろうと読者には思える。
その男の感慨としての冒頭の一行である。
是非ともこの一文を読ませたい輩がいるんだな、私には。だから読み流せず、くり返し読んでは、その一文をノートに書き留めたりしている。

感情を的確に言葉にするのは難しいことで、ああこの気持ちうまく言葉にできない、というもどかしさの中で、結局は一瞬の感情の多くは次の感情がやってきたらすぐに忘れ去ってしまう。
日々の煩雑の中で言葉にできない感情のかけらはどんどん胸の奥の底の深いところにうずもれていくだけ。
それでいいのかもしれないと思うこともある。いちいちの感情をいちいち取り立てて名前を付けて陳列していたら暮しは立ち行かないってこともわかる。

先週実家に短く帰省していて、母と同居する兄夫婦の母への態度にはいつも何やら不穏な感情が渦巻きつつも、同居する人たちの鬱陶しさは遠くで暮らすものには本当には分からないものだし、とその感情をいつも仕舞い込んで、口では「お義姉さん、いつもお世話掛けて、母をよく見て下さってありがとう」と、相当な忍耐力を擁しつつもその態度を貫き通している。でも胸の中では不穏な感情が渦巻いている。この感情はなんなんだろうか。

で、冒頭の一行を読んだとき、とても腑に落ちるような気がしたわけです。

自分を生んでくれた人への敬意をなくすことは自分の人生を軽んじることになりはしまいか、というのが、多分私がここ数年来実家に帰省する度に胸に渦巻いていた言葉にできない感情だったのだな、と気づいたわけです。

老いた母が尊重されていないことが無念でならないのは、私の人生の基本的な品位が傷つけられているように感じるという感性について、実家の兄夫婦はとうてい共感し得ないであろうから。

とこのところの私の感情が言語化されたということについて、腑に落ちたということをここに記しておきます、とりあえず。