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安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「はじめまして」その7

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「はじめまして」⑦


春菜の変調を修一は痛ましく見ていた。無理をさせないほうがいい、と妻には何度か言ってはみたが、その言葉は朋子を混乱させるだけのように見え、次第に口をはさめなくさせていた。そのころ修一は会社で大きなプロジェクトを抱えていた。家庭内を覆いつつある暗雲を掃うだけの気力と時間的余裕を持たなかった。春菜の苦境にもつい目そらしがちだった。いや、見るに忍びなかったのかもしれない。春菜の痛ましさは自分の痛ましさではないかと、そこへ思い及んでしまうことが怖かったのかもしれない。数ヶ月のち、やや仕事のほうにも余裕ができたころ、春菜は完全に学校へ行けなくなっていた。朋子もまた、無理に学校へ連れて行くことに疲れてしまったのか、朝自室から出てこない春菜をヒステリックに呼び立てるということもしなくなっていた。
修一はある日曜日、春奈に、「みんなでドライブに行かないか」と誘ってみた。閉じられたドア越しに声をかける。そのドアの向こうへ長く入っていない。朋子に聞くと、春奈は自室に朋子が入るのを激しく拒否しているという。返事はない。朋子によると、ここしばらくはほとんど部屋の中に閉じこもりになっていると言う。渉が、「ドライブ?僕も行っていいの?」というのを朋子は、「今日は、サッカーの試合でしょ。早く準備しなさい。」と急き立てている。春奈が、修一の誘いに応えるはずがないと思っているようだ。修一はそれ以上声をかけなかった。もし、自分の呼びかけに春奈が応えたら、朋子は傷つくのだろうか、と考える修一もいた。
三十分ほどして、朋子と渉は出かけた。当然のように車はその二人が乗って行ってしまった。リビングの飾り棚の前で、そこに収まっている二枚の家族写真を修一はしばらく見ていた。ドアの開く音がして、春奈が階段を降りてきた。。
初夏の頃に短くしていた髪ももうずいぶん伸びている。修一は春奈に痛ましさを見てしまう。朋子と渉が出かけてしまった後の家の中に置き去りにされたもの同士のような痛ましさの共感を春奈に抱いてしまう。
春奈が自分にそういう共感を見出しているとは思えないが、とにかく、春奈は部屋から出てきたのだ。拒絶はしていない。
「朝ごはんは食べたのか?」と聞くと、「食べた」と答える。
「車、ママが乗って行っちゃったんだ。」と言うと、「知ってる」と答える。薄いレースのカーテン越しの真冬の澄んだ日差しに照らされて、春奈の白い頬が際立つ。その表情は、硬いままだが、強い拒否はない。修一はさっきから春奈が自分を拒否するものと決め込んでいたことに気がついた。気がついてみると、春奈の別の表情が見えてくる。小さいときから、母親よりも自分になついていた春奈を思い出し、修一は、いつの間に自分は春奈に拒否されていると思い込んでいたのだろうか、と考える。春奈は、大きくなるごとに朋子に似てくる。その相似が、春奈と自分の距離を作っているのか、と考えてみる。朋子との間の距離に修一は無意識のうちにも傷ついているということなのだろうか。その距離を縮めたくて修一は春奈の髪に触れてみる。
不意に春奈が顔をあげて、「ママがいなくてほっとする。」と言った。「ママの言うとおりにはしたくないの。」と、小さく、けれど修一に訴えるように春奈はつぶやいた。修一は、はっとする。そのことばは、ことばだけで捉えるなら、春奈の朋子への拒否に聞こえる。さっき見た、美しい家族写真の中の自分の家族が、お互いの間に拒絶のドアを立て、お互いを隔てあっている、そんなイメージの中で暗澹とした気持ちになる。しかし、春奈のこの痛ましさは何なのだろう。そのとき、春奈が、「パパがかわいそう。」と言った。言った後で、後悔したように階段を駆け上がっていった。春奈もまた、父親を痛ましく見ていたのか?修一は、リビングに取り残されたまま、その誰もいない部屋に自分さえもいないような心もとなさを感じてしまった。
その日、夕方になって朋子が帰ってきたとき、修一は春奈のことばを朋子に伝えられなかった。


つづく

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連載小説「はじめまして」その6

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「はじめまして」⑥

夏休みには一家でハワイ旅行へ出かけた。
寺の嫁になっていたらこんなことは適わなかったはずだ、と朋子は自分の家族の形に満足した。ハワイの絵空事のような色をした青い空を背景に微笑む一家の新しい家族写真が戸棚を飾った。

中学一年の二学期が始まってまもなく、突然春菜が学校を辞めたいと言い出した。
いや、一学期の期末試験が終わった頃に前兆はあった。長く伸ばした髪を毎朝朋子が結ってやっていたのだが、ある朝、洗面所で春奈はその髪をばっさりと自分で切り落としたのだ。洗面所の床に切り落とされた髪が無残に散らばっていた。朋子が驚いて、叱って「なぜこんなことをするの?」と問い詰めたら、「暑かったから」と春奈は答えた。そして、こんな髪では学校に行けないから今日は休む、と言った。朋子は、春奈の行動に不可解なものを感じながらも、この子は小さいときからとにかく私を混乱させてばかりいた、との思いで、その日の出来事もその範疇のことだと思うことにした。午後から美容院に連れて行き、ショートカットにしてもらったが、春奈はその髪型が自分には似合わないから嫌だと言ってはときどき学校を休んだりした。けれど夏休み直前のことで授業もほとんどない時期だったので朋子は、春奈のいつものわがままだと、その程度に考えてそれ以上はあまり深く考えなかった。そのうち夏休みになり、春奈は特に問題もなさそうな、落ち着いた様子でその夏休みを過ごしているように朋子には見えていた。ハワイでも、春奈は楽しそうだったではないか。戸棚の家族写真を振り返って朋子は途方にくれるしかなかった。

順調なはずではなかったか。ここまで私の人生は何の曇りもないはずではなかったか。春菜は希望に燃えて中学生になったはずではなかったか。私は穏やかな満ち足りた家庭の主婦だったはずではなかったか。朋子の自問に否と答える朋子はいなかった。

毎朝嫌がる春菜に懇願するように着替えさせ車で学校まで連れて行った。
車の中で、朋子は「どうして、学校が嫌なの?いじめられているの?」と聞いてみたことがあった。春奈は何も答えようとしない。校門の中へ押し込むように春菜を一旦学校の中に収めてしまえば少し安心できた。慣れるのに時間がかかっているだけ、だってあんなに制服が似合っているのに。他のどの子よりこの学校の制服が似合っているのに・・・・。

つづく

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連載小説「はじめまして」その5

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「はじめまして」⑤

朋子は、その年三十四歳になっていた。修一は妻の美しさが時々まぶしかった。見合いの席ではじめてみた時、目眩がするほどだった。

小さい女性だな、というのが次の印象でそれも修一の好みだった。顔も手もどこも小さくて、消え入りそうな風情というのだろうか。体の大きい修一は、だからなのか小さい女性が好みだった。女性だけではなく、ミニチュアの模型など、とにかく自分の体のスケルとは違った小さきものに愛着してしまう性向があった。
結婚の承諾をもらったときは心底うれしかった。結婚までのデートで、自分と比べてあまりに小さい朋子を壊れるのではないかとの思いから抱きしめることも憚られた。もちろん抱きしめてキスをしたことぐらいはあったが、自分の腕の中で震えるようにしているその女性をどう扱っていいのか戸惑うほどだった。結婚前にはそれ以上のことができなかった。
初夜で初めて触れた朋子の肌は透き通るように白く、抱きしめると本当に壊れるのではないかと思えた。真っ白な繊細な陶磁器を思わせた。それは朋子の体の意外に冷たかった感触からのイメージでもあった。修一は朋子を愛しても愛しきれないような、自分の愛情が朋子のどこにも響いていないようなもどかしさを感じた。そのもどかしさは結婚生活の中でずっとずっと拭いきれないでいる。
三十四歳の妻はまだまだ若く、美しかった。育児や家事で不首尾な面が多々あったが、修一にはそれが朋子の未成熟さゆえであり、その妻の未成熟ささえ愛しく思えるのだった。
朋子は修一の性的な欲求に対してあまり積極的には応じてくれない。時折狂おしく妻に対して欲情するのだがその欲情をそのまま妻にあらわにすることが躊躇われた。三度に一度ははっきり拒まれることもあった。寝入り端や早朝のまどろみの中では比較的応じてくれるという感触があり、修一はいつも夢うつつの、心ここにあらずといった風情の無反応な妻の体しか抱けない状況にいる自分を悲しむこともあった。
渉を溺愛する妻を見ると心がざわつくこともあった。妻が「渉」と息子の名前を呼ぶときの声に何かを感じてしまう自分がいた。そういう自分をおろかだと思いながらも渉に嫉妬しているとはっきりと自覚することもあった。
修一は、定期入れに妻の写真を入れている。そのことを職場の同僚や部下たちは知っていて、当然冷やかしの対象になる。
「きれいな奥さんですね。」と部下たちの儀礼的とばかりもいえないほめ言葉にも、「実物はもっと美人だぞ。」などとやり返して、ことさらに愛妻家である自分をアピールしてしまうことがある。息子に嫉妬してしまうなどと愚かでみっともない自分をとことん戯画化したいと思っていたのかもしれない。ただの愛妻家として処理して笑い話の範疇にとどめておきたかった。おきたかったなどという言い回し自体がそれ以外の複雑な思いをはらんでいることの証なのだが、それ以上のことはなるべく考えまいとしていた。
渉が朋子の希望した私立の小学校の入試に合格したとき、もちろん修一も喜んだが朋子の喜びぶりの尋常でなさを見せられるとやはり心がざわつくのだった。そして、その母親を見る春菜の表情を修一は痛ましく見たのだった。
妻がいて自分がいて春菜と渉、まずまず恵まれた家庭だろう。
渉の入学記念にと家族写真を、ちょっとは名のあるプロのカメラマンに撮影してもらった。その家族の肖像はしゃれた写真立ての中で、いま、リビングの飾り棚の一番目立つ場所に収まっている。美しい、整ったその肖像が時折修一には見つづけられない気分にさせてしまうことがあった。きっと考えすぎなんだろうと思いながら、そんな自分を笑い飛ばしてしまおうと思いながら、笑い飛ばしてしまうことに失敗してしまうのだった。

以前よりは扱いやすくなった春菜の変化を見て、朋子は、中学は私立に入れたいと考えるようになった。春菜にその自分の希望を話したとき、春菜は受験すると答えた。朋子は、初めて春菜が自分の意に添う反応をしてくれたような気がしてうれしかった。すぐに進学塾へ通わせる手はずを整え、週に三回の塾への送り迎えを負担とも思わず朋子は春菜のお受験に気合を入れた。

ちょうどそのころだったろうか、テレビのドキュメンタリー番組で四国の霊場のひとつである古刹が取り上げられ、その寺の人々の暮らしが紹介された。    
老いた住職とその妻と跡取りの息子と嫁が、お遍路さんを温かく迎えるというヒューマ二ティあふれる番組だったが、それをたまたま見ていた朋子はもしかしたら自分のもうひとつの人生だったかもしれないと、その寺の嫁という立場の女性を注視した。その寺はもちろん朋子のかつての恋人が跡を継いだ寺とは違ったが、自分にも同じようなもうひとつの人生があったのかもしれないという気持ちで見てしまったのだ。そして、それを選ばずに、今ここにいることを肯定した。私にはああいう生活はできなかったわ。一日中舅や姑と過ごし、自分の自由な時間もなさそうな生活は自分には耐えられなかっただろうと思えた。
郊外とはいえ、しゃれた一戸建てを手に入れ、健康な二人の子どもに恵まれ、穏やかで自分を愛してくれる夫を持ち、習い事や趣味に時間を使い、時には渉の学校の母親仲間とランチを楽しむという生活を朋子は自分の思い描いていたとおりの結婚生活ではないかと確認するように振り返った。
自分の育った家庭と似ている家庭。
私の選択は間違ってはいなかったとその夜ベッドに入ってからもさっき見たテレビの映像を思い出し何度も確認した。その夜、朋子は初めて自分から夫に体を寄せた。修一は驚き戸惑いつつも朋子を抱いた。夫の行為の中で朋子はやはり満足できない自分を知ってしまったのだが。
春菜は、やはりなかなか気難しい子どもではあったが、彼女なりに母親の期待に応えようとしているように見えた。朋子は渉と比較するまいと、また彼女もそれなりに努力した。母と娘の、蜜月とまでは行かないが以前に比べれば安定した関係の中で、中学受験という大きな目標に向かって数年が穏やかに過ぎた。
第一志望は叶わなかったものの、大学までエスカレーター式に進学できる女子校に合格が決まり、朋子は素直に喜んだ。春菜もうれしそうだった。修一は殊のほか喜んだ。
「ここの制服は春菜にとてもよく似合うわ。」と朋子は、性格はぜんぜん似ていないのに容姿は年齢とともにますます自分に似てくる春菜を誇らしく思う自分に酔った。

つづく



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連載小説「はじめまして」その4

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はじめまして④

相変わらず気難しい春菜と渉の育児に埋没する数年が過ぎた。春菜を私立の小学校へ入学させるのは早いうちにあきらめた。春菜は悉く朋子の意に添わない方へばかり向かっていくように思えたからだ。朋子が私立へ行かせたいと願えば、絶対無理ですね、と幼児塾の塾長に言い渡されるような子どもになった。それは春菜の意志のようにも思えた。そのように思えてしまう朋子だったというべきか。 
春奈が小学校に入いる直前のこと。誕生日に幼稚園のお友達を招いて小さなパーティーを開くことになり、通園バスが同じになる四人の子どもを招いた。その中の特に体の小さい女の子が、送って来た母親と離れたがらなかったので、そのまま母親も同伴してもらうことになった。春奈はお友達の中では快活でよくおしゃべりをする。母親にはあまり見せない表情の春奈に朋子は春奈の自分へ拒絶を改めて見せられたような気がした。ダイニングのテーブルに腰掛け、リビングの子どもたちの様子を見ながら、母親同士の世間話をしていたが、その女の子はしきりに母親の元に駆け寄ってくる。キャンディの包みをむいてくれ、とかケーキのクリームが頬についたから拭いてほしいとかで母親にいちいち甘えにやってくる。その母親は、面倒くさがらずに優しく子どものいうままにしてやっている。何度目かにその女の子が母親のところへやってきたとき、春奈が、その様子を目で追っていることに朋子は気づいた。珍しそうに見ていた。羨ましそうに見ているのかもしれなかった。朋子は、よその母親と自分の母親を比べて羨ましがるなんて母親への裏切りだと感じた高校生のときの記憶を蘇らせた。無念な気持ちがこみ上げた。その無念さが哀しく自分をこういう気持ちにさせる春奈を少し憎んでしまったような気がする。その女の子は、春奈を入れたかった私立の小学校への入学が決まっていた。母親に手放しでこんなに甘えてくるその小さな女の子を、朋子は自分でも気がつかないうちに羨ましく見ていた。

その小学校へ渉は難なく入学した。
渉が小学校へ上がる年、春菜は四年生になり、多少は扱いやすくなってきたようにも思え、朋子にとっても穏やかな心持で二人の子どもの母として、その年の桜を眺めた思い出がある。
夫は穏やかな人だ。春菜も気難しいとはいえ健康に育っている。そして私の渉ーー朋子は渉にはつい私の、と付けたくなってしまうーーは、私の望むとおりの子どもに育っている。利発で素直でかわいい。私は、幸福な主婦だわ。家の近くの公園の桜を眺めながらことさらにそんな思いを反芻した朋子だった。

つづく


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連休中のわたし、実話、ときどき法螺 その3

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黒豆


連休中のわたし、実話、ときどき法螺

ちゃまこと私は大学時代からの友人なんだけど、大学時代にはそれほどの交流はなかった。私の友人の、その友人という距離感。


私の友人の黒豆とちゃまこは下宿が同じだった。
大学のある私鉄駅から3つ先にある駅にその下宿森田荘(実名)はあった。
40年くらい前の時代の話。
トイレも風呂も厨房も共同という、でもその時代にはそれが一般的な学生の住居形態だった。とはいえ、中にはワンルームマンションに住む学生もいたにはいた。ちゃまこと黒豆の共通の友人であるマリリンは父親に買ってもらった分譲マンションに住んでいたしね。
で、私はというと、実家住まいだったのだ。仕方がない。都会に実家があるものの悲劇はこういうところにある。
親の目の届かない生活を手に入れた彼女らがうらやましくて、当時私は黒豆の下宿に入り浸っていた。
黒豆の部屋は2階で、ちゃまこの部屋は階段のすぐそばにあり、通りがかりにドアをノックして「ちゃまこぉ、ミモザだよぉ」なんて声を掛けて、黒豆に「しいっ」と叱られたりしたもんだ。黒豆は意味ありげな目配せで、それはちゃまこの部屋に彼が来てるってこと。

黒豆もミモザも彼がいない身の上だったもんで、そのドアの向こうで二人がどんな風に過ごしているのか、想像してもしきれないものがあったなぁ。

彼が来ていないときにはちゃまこが黒豆の部屋までやってきて、「な、な、階級闘争やろ」って言うこともあった。当時仲間内で階級闘争が流行っていたのだ。
黒豆も賛成して、隣のポカリちゃん(この子は我々とは別の美術大学に通っていた)も誘って4人の女子大生が集結、階級闘争が始まるのだった。


つづく(連休中の話のつもりが思わぬ展開に!)


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連載小説「はじめまして」③

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「はじめまして」③

一年後見合いをし結婚した。大手の造船会社で設計技師をしている修一だった。

朋子は当然処女ではなかった。恋人との間には充実したセックスの経験があり、かなり奔放な行為も経験した。好きだったらこんなことまでできるのか、と自分でも驚くような行為も経験した。初夜で初めて修一との行為があり、それは朋子自身がどうにもならない違和感を抱くという結果に終わった。何も感じることができなかった。苦痛というのではなかったが、恋人との喜びに満ちた行為とはなんて違うのだろうと愕然とした。

それでもすぐに懐妊した。春菜は最初から手のかかる子どもで、夜鳴きも激しく、出産後半年間はほとんど満足な睡眠が取れない状態がつづき、そのせいか母乳も十分に出なかった。哺乳瓶を嫌がる赤ん坊に、出ない母乳を与えながら、朋子は腕の中の赤ん坊が自分を苦しめるだけの存在のように感じたこともある。
幼児期もすぐに癇癪を起こして朋子を混乱させた。そんな朋子の覚束ない育児に修一は協力を惜しまなかった。会社から帰ると、一日の育児に疲れきった朋子に代わって春菜の相手をしてくれた。夕食の支度をのろのろとはじめる朋子を責めることもなく、その支度がテーブルに整うまで春菜を上手にあやしてくれた。けれど、朋子はそれを有難いと感じるより、母親より父親の腕の中で機嫌のいい春菜と、楽しそうにその春菜をあやしている夫の姿にいらだってしまうこともあった。
三年後に二人目の妊娠を知ったとき、このまま夫には内緒で堕ろしてしまおうか、とそんな思いがよぎることもあったが、自分がそのような大きな秘密を守れるはずがないという理由だけでその企ては実行できなかった。
生んでみると、二人目の子どもには春菜とは違う自然な愛情が湧いた。二人目は男の子で渉と名づけた。それは朋子の希望だった。好きな小説の主人公だからと夫にその理由を説明したが、その名前は別れた恋人の名前だった。
なぜそんなことをしてしまうのだろうと、朋子は自分自身で訝った。私はその恋人を忘れられないわけではない。昔の恋人を恋しがるなんて、今の私はそんな惨めな境遇にいるわけではないはずだ。その恋人とは自分の意思で別れたのだから。
「渉…」と腕の中の赤ん坊に呼びかけるとき、朋子は自分でも不可解な胸の中の波立ちを感じるときがあったが、それは赤ん坊への愛情からだと納得するようにした。

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連載小説「はじめまして」③

は、明日掲載です。(予告)