安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

私の東京

高校時代の親友が東京の大学へ行ったので、大学時代は時々東京へ遊びに行った。

彼女は父親の転勤でそれまでにも横浜や東京近辺で暮らした経験もあり、またお姉さんもその当時日吉に住んでいたりで、他の東京初体験新入生より余裕で新生活をはじめていたみたい(に私には見えた)。
遊びに行くと、いろいろなところへ私を連れて行ってくれた。
あ、そういえば彼女は高校時代から私を私の知らないところへよく連れて行ってくれたんだ。ステキな喫茶店とか、美術館とかね。

渋谷の、あまり人の知らなさそうな雑貨屋で、京都では見かけないような不思議な、妙な雑貨を見て歩くのが楽しかった。とても着れそうにない変な柄の水着や、使い道のない小さな壷とか、マッチ箱のケースとかを買ったりしたな。

歌舞伎町も二人で歩いた。
「ここはね、道の真中歩かないとだめなんだよ。端っこ歩いてたら、急に腕を引っ張られて、気が付いたらフィリピン、とかいうことがあるんだってー」と彼女は教えてくれて、二人でしっかり腕を組んで道のど真ん中を緊張して歩いた。19歳の私たち。


二人で行った山陰旅行で知り合った東京の大学に通う男の子と彼女は何度か東京でデートしたりしていたけど、その男の子から好意あふれる手紙を私は受け取っていた。
彼女がその男の子を特別に好きではないということを私は知っていたけど、それでもなんだかうしろめたい気持ちにさせられた。

20歳の夏休み、私は一人で東京へ行った。
その男の子と二人だけで会った。
彼女が夏休みで帰省している隙を狙ったような上京だった。
20歳の私は、全然うぶ子ちゃんで、好きという感情と20歳の女性がとるべき行動のバランスを欠いていたと思う。
その男の子は戸惑っただろう。ま、それだけのこと。

22歳。
私は大学のゼミで出会った演劇青年と奇跡のような恋をしていた。
演劇青年の知り合いの劇団の公演を見るために東京まで行った。
池袋の文芸座地下の「ル・ピリエ」という芝居小屋。


結婚してから、数年後私は一人東京ツアーを再開した。
田舎になじめない。田舎大嫌い人間と化した私は年に一回ぐらい東京の空気を吸わないと死んでしまうような気がする自分を、なにかをごまかすために演出していただけかもしれない。

その当時の自分を分析したらもっといっぱい書けるけど、この日記の本論とはずれるので割愛。
とにかく娘が小学校の低学年くらいになったら、一年に一回くらいの割合で一人で東京へ遊びに行くようになった。

田舎の薄汚れた空気に毒されたくたびれ主婦は、東京のおしゃれな雑貨屋めぐりを楽しむこともできる、と自分に言い聞かせることで何を守っているつもりになっていたのか。
小難しいことはええわ。
とにかくその頃の私は、一年に一度東京へ出かけ、お芝居を見、おしゃれな雑貨屋やインテリアショップを見て歩き、生活に何の役にも立たないガラクタを買って歩いていた。

娘が拒食症になりそんなことをする精神的余裕も経済的余裕もなくなった。


娘が中学2年の1月(それは拒食症の発症から10ヵ月後くらいだったか)、気分転換にと二人で東京へ遊びに行った。
私は神田の古本屋で古いテレビドラマのシナリオを探したかった。
娘は渋谷でショッピングと2時間くらいの別行動時間をとった。

約束の場所に行くと、その2時間大量に果物やパンを買い込んで道端で食べていたという娘がそこで泣きながら待っていた。

拒食症から過食症に移行していくその境目を、東京の渋谷の雑踏の中で、はっきりと見せられることになってしまった。

その待ち合わせ場所に向かう前にほんの数十分、私は一人で喫茶店に入った。東京で一人でコーヒーを飲んでいるシチュエーションを楽しんだ。
それからの数年間、その直後に私が見たものとの対比として、その喫茶店での数10分を何度も何度も思い出した。何の意味もないけど何度も思い出してしまった。

それからたくさんの時間が流れた。

東京はもう私にとってどうでもいい街になった。

それからまた少し時間が流れた。

いま、東京に数人の大切な友達がいる。
ネットで知り合った人たち。

まだ一度しか会ったことがなかったり、一度も会ったことがなかったりの人たちだけど、とても大切だな-と思える人たち。

そして、東京での観劇も再開している。

また東京が私を呼ぶようになった。
遊びにおいでえーと誘ってくれる。

行ける範囲で会いに行くよ、東京。



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名作文

こないだの帰省の折、母から聞いたこと。

昔話の中で。

父は在日韓国人(母も同じく。つまり私は在日韓国人。今は結婚して国籍は日本人であるが)で、そんな父の友人の話です。
娘から見て父親の交友関係って正確にはつかめていないから、友人と言ってもどの程度の親密さであったかとかはよくわからない。

私の記憶としては、その人は我が家では「せんさん」と呼ばれていました。
「せん」が名前の一部なのか、韓国の姓なのかもわからないです。
ちょっとひょうきんなおっちゃんでした。
言葉には韓国訛りがかなり残っていて、風貌もいかにも韓国人っぽい人です。
ええと、「パッチギ」にでてきた笹野高史風といえばわかりやすいか。私はこの人のこと嫌いじゃなかったです。

まだ壬生に住んでいたころ、せんさん一家も近くに住んでいたようで、母が買物帰りなどにせんさんの家に立ち寄ってせんさんの奥さんと玄関先で話している情景が思い出せます。
せんさんはビニールのカバンを自宅の一部を作業場にして簡単な機械で製造するという仕事をしていた。小学生がプールに持っていく、透明な袋ね。
貧乏してはるのが子どもの目から見てもわかりました。
私と同い年の女の子がいて、その子が長女でその下に男の子が二人いたように思う。
奥さんが貧乏を嘆くような口ぶりで母に愚痴を言っていたような気がする。

せんさんは我が家に来て、父とお酒を飲んでいることもあったかもしれません。そのときも浮世の辛さを酒に紛らすような、そんな飲み方、喋り方のかすかな記憶。

父にはそういう似たような境遇の友人が何人かいたように思う。
みな貧乏で、訛りが強く、パッチギの住人のような人たち。

そんな友人たちの中で、父は娘のひいき目もあるのかもしれないけど、しゅっとした(関西弁でスマートなって感じ?)人で、そして何より不思議なのが父にはまったく訛りがなかったんです。
読み書きができない人もいました。せんさんもそうでした。
少し大きくなると、我が家に出入りするそういう人たちが、いろんな書類を父に代筆してもらいに来ているということもわかってきました。
父は小学校もまともに出ていないけれど独学で高卒程度の学力があり、働きながら大学に聴講生で通った時期もあったそうです。父は学校の先生になりたかった、というのを聞いたことがあります。いかにもその職業が似合ってそうな人でした。貧乏がそうはさせてくれなかったんでしょうね。
母との昔話の中で、改めて父の人となりに触れ、父の人格を誇りに思ったり、懐かしさ、恋しさを新たにしたり・・・
でも、今日の話はせんさんのことね。

西京極に引越ししたことでせんさんとも少し疎遠になりました。
せんさんが一念発起で中華料理店を始めたこと、それが思いのほか成功しているという話を父母の会話から漏れ聞いたりしていました。

もう30代後半か40代になっていたかもしれないその時期からの転身は大変な苦労があったんだろうなぁと今そんな話を思い出して考えます。

成功したせんさんの店に両親と私と3人で行きました。
すごく印象に残っているのは、その日が高校の合格発表の日だったこと。

お店は繁盛していて私と同い年の長女が立派にお手伝いをしていました。
高校へは行かずお店の手伝いをすることを奥さんがうれしそうに話し、その女の子もそれを誇らしそうにしていたのが、私には驚きだったわけですが、それはどんな驚きだったんだろうね。うまく思い出せない。ええと、その女の子がすごく美人になってたことも驚きだったんだけど、それもどんな気持ちでそれを見ていたのかうまく思い出せないんだけどね。でもなんだかとても印象的な夜でした。

それからまた数年が過ぎて、何かの折に、母がせんさんの美人の娘さんに縁談を持って行ったら、もう決まった人がいるらしい、とかそんな話を漏れ聞いた記憶が一つ。
その後はもうせんさんにまつわる話は思い出せない。

で、今回母との昔話でせんさんの話を聞くことになりました。

せんさんはその後もお店は順調に繁盛し、息子さんが跡を継ぎ・・・
そうこうしていたらお店が道路拡張に伴い立ち退きになり、それがバブルの絶頂期で、法外な立ち退き料をせんさんは手にすることになった。

立ち退き後の店舗も確保でき、それでも余りある財産を作ることができ、やれやれという矢先、せんさんは急死されたそうです。トイレで倒れ、そのまま。
20年くらい前の話。そうか、せんさんそういう亡くなり方やったのか・・・

「もうせんさんの家族が今はどうなってはるか全然知らんのんえ」と母はこの話を締めくくろうとして、思い出しついでにこんな話をしてくれた。
「せんさん言うたら、あんた覚えてるか?」
と面白そうに話し出したんだけど、全然私は覚えていない話だった。
せんさんは我が家に来ると末っ子の私をよくからかっていたそうです。
ミモザちゃんは橋の下に捨てられてたんをおっちゃんがひろてきてこの家に預けたんやでぇ」
来るとせんさんはいつも私にそう言って私を泣かしてたんだって。
覚えてないなぁ。私はせんさんになついてて、ひょうきんなこのおっちゃんによく笑わしてもらってたと思ってたんだけど。
で、その話を学校の作文に私が書いたんだって。

その話がおもしろいて先生に褒められたやん。おかあさん、よう覚えてるえ~、あんた覚えてへんのかいな。

へええ、どんなこと書いたんだろ?
そのつづり方(作文ではなくつづり方と母は言った)読んでみたいなぁ。

我が母は子どものそういうものをきちんと保存しておく人ではなかったのでどこにもありません。

ミモザ、一世一代の名作文だったかもしれんのになぁ。

本音なの、それ。

SNSで知り合った同年齢の女性のブログにご夫婦二人旅のアルバムが公開されていた。

パパと一緒に東京のカフェめぐり。こんな旅に付き合ってくれて、パパも結構楽しんでくれてとっても楽しかった、云々

私は、夫との二人旅などごめんだなぁ、と思う。

ちっとも行きたいなんて思わない。だからちっともうらやましくなんかないはずなのに、そのブログのなかの、楽しそうな夫婦の笑顔がふと思い出されて、胸の中が嫌な感情に満たされて、それって妬みって感情なんじゃないの?と自問して、答えを知らんぷりにして、その映像を無理やり消したりなどしている。

東京のカフェめぐりは一人でするよ。
だいたい私はタバコ吸いたいしダンナは吸わないし、だいたい東京のおしゃれなカフェは禁煙だろうし、だいたい、もうおしゃれなカフェなんかめぐりたくなかったんだった、などと思いめぐらして自嘲したりしてみる。

お芝居見て、そのあと居酒屋を付き合ってくれる友人が一人か二人いたらそれで東京の旅は十分に楽しい。
5年前まで付き合ってた男を呼び出すことだってできるしさ。
5年前まで付き合ってたってのは嘘で今も彼の方は付き合ってるつもりなんだろうけれど、私がもう男の前で裸になるのが嫌で、裸になってすることにも気が進まなくて、東京へ出かけることはあっても男には知らせなくなっている。(そのために、SNSで彼が私の日記を見られないようにしてある。)

安寧なんか欲しがりません、の安寧ってのはさ、単に夫婦仲良く老いる老後のことだったりするのかな、私のイメージとして。
だとしたら、すごくつまらないなぁ。
そんなことはもうすっかり乗り越えられているつもりなんだけど。

安寧なんか欲しがらないって生き方は、そんなこと言ってるつもりじゃなくて・・・


だからさ、夫婦仲良く旅してる人を妬むって、それ、あんまりな裏切りなんですけど。

品位

父母に対する尊敬というものは、公文にとって、人生の基本的な品位に関わるものであった。

というのは昨夜読んでいた小説の一節なのだけれど、この一文をすっと読み過ごすことができず、その前後も含めて何度も読みかえしてしまった。
とても心に響いたわけです。

公文某という主人公の男は40代の半ばを過ぎて独身で、過去に結婚式を挙げるというところまで行った女がいたけれど母親の気に入らず、結局100日ほどの同居の後、入籍もしないまま別れたという経験があった。
その女性視点の文章の中で公文という男は、恋人より母親を選んだマザコン男と断じられている。
まあそれも間違ってはいない評価だろうと読者には思える。
その男の感慨としての冒頭の一行である。
是非ともこの一文を読ませたい輩がいるんだな、私には。だから読み流せず、くり返し読んでは、その一文をノートに書き留めたりしている。

感情を的確に言葉にするのは難しいことで、ああこの気持ちうまく言葉にできない、というもどかしさの中で、結局は一瞬の感情の多くは次の感情がやってきたらすぐに忘れ去ってしまう。
日々の煩雑の中で言葉にできない感情のかけらはどんどん胸の奥の底の深いところにうずもれていくだけ。
それでいいのかもしれないと思うこともある。いちいちの感情をいちいち取り立てて名前を付けて陳列していたら暮しは立ち行かないってこともわかる。

先週実家に短く帰省していて、母と同居する兄夫婦の母への態度にはいつも何やら不穏な感情が渦巻きつつも、同居する人たちの鬱陶しさは遠くで暮らすものには本当には分からないものだし、とその感情をいつも仕舞い込んで、口では「お義姉さん、いつもお世話掛けて、母をよく見て下さってありがとう」と、相当な忍耐力を擁しつつもその態度を貫き通している。でも胸の中では不穏な感情が渦巻いている。この感情はなんなんだろうか。

で、冒頭の一行を読んだとき、とても腑に落ちるような気がしたわけです。

自分を生んでくれた人への敬意をなくすことは自分の人生を軽んじることになりはしまいか、というのが、多分私がここ数年来実家に帰省する度に胸に渦巻いていた言葉にできない感情だったのだな、と気づいたわけです。

老いた母が尊重されていないことが無念でならないのは、私の人生の基本的な品位が傷つけられているように感じるという感性について、実家の兄夫婦はとうてい共感し得ないであろうから。

とこのところの私の感情が言語化されたということについて、腑に落ちたということをここに記しておきます、とりあえず。

ミカ何処 完結編

帰省の折にミカの実家を訪ねてみた話をクラスメートのWくんに気まぐれメールし、結局ミカの消息は教えてもらえなかったよ、と伝えたあとのWからの返信には、

本当にミカはいたのか、あのクラスに?!


と書いてあった。

ミカは私がつくり出した青春のまぼろしだったんだろうか?

ミカ何処?②

なにか旧友たちと交われない事情がミカに出来(しゅったい)したのかもしれない、とようやくそのように気づいたのが15年前。
でも具体的にそれがどんな事情なのか想像つかなかった。

裕福な家庭のお嬢様で、恵まれた結婚をしたはずなのに。


高校2年、17歳の時間を私はミカと存分に楽しんだ。
授業をさぼることもしばしばあった。当時の京都の公立高校はどこも自由な校風を謳っており、校門は常に開け放たれ、授業中にもかかわらず近隣の喫茶店でタバコをふかす輩も、特に「不良学生」に限らず、それもまた自由な校風を享受している一つのスタイルの標榜でもあったような。
私もまた「自由な校風」を悪用して学校のすぐ近くにあったミカの家で青春の怠惰に身をゆだねたりしていた。

井上陽水の新しいアルバム、買った?
すごいね、あのアルバム。

などと休み時間にそんな話をした後は、「んじゃ、家で聴く?」というミカの誘いにお気軽に「行く行く」などと答えてそのまま数学の授業を幾度さぼったことか。
結果、定期考査では数ⅡB、14点などというお点(汚点?)を頂戴し、担当教諭から職員室に呼び出されもした(反省文を書いてきなさいと言われ、提出した反省文がなかなかの名主張だったらしく、「ま、あなたは数学のない世界でがんばりなさい」と数学教諭に励まされたことは今となっては青春の輝かしい1ページを彩るエピソードのひとつである)。


ミカの部屋で聴いた「氷の世界」。
まだマイナーだった荒井由実の「ひこうき雲」を聴かせてもらったのもあの部屋。

この人、まだ19歳なんだよ。
でも顔が地味~~などと他愛ない会話の一つ一つを私はまだ覚えてる。
覚えてるよ、ミカ。ミカは思い出すことないのかな、私との時間のひとかけらでも。


ミカは京都の老舗の名喫茶店にも私をよく連れて行ってくれた。

今も残る京大前の「進々堂」、京都御所近くの「ほんやら洞」、「築地」や「ソワレ」などという喫茶店に出入りすることは17歳の女子高生だった私にとっては大人の世界を垣間見し、その向こう側への健やかな好奇心をはぐくんでくれる青春のエチュードだった。私の覚束ない練習曲の指使いはミカのそれをまねることだった。

高校3年生になってクラスが別々になったけれど、ミカとの交流は続いた。

ミカを思い出すとき必ず蘇るシーンがある。
高校3年生の晩秋、放課後の教室。夕焼けに染まる教室にミカと二人だけ。
ミカが歌ってる。

この汽車は機関手がいない~
終着駅まで停まらない~
終着駅はないかもしれない~
それは明日かも知れない~~

ミカが歌うのをなぞって私も後について声を出している。

聞いたことがない歌だったけれど気に入って、覚えさせろとミカにねだったみたいだ。

この時教えてもらった小椋佳の「この汽車は」は私がお風呂で歌う歌のヘビエストローテーションソングだ、60歳になった今も。

進々堂にはいまも帰省した折には娘と一緒に出かけることがある。BGMのかからない静かな図書館みたいな学生街の喫茶店。

ミカの記憶に繋がるものが今の私のはまだいくつか残っている。60歳になった今も。

でも、ミカはもう私のことなんか思い出してくれないのかな。
会いたいって思ってくれないのかな。


それとも、それとも、思い出すことも会いたがることもできなくなっちゃってことなのだろうか。

ミカ、何処にいるの?

つづく

ミカ何処?

f:id:quietsea526:20170922164815j:plain高校同級生のW君から気まぐれメールが届く。
あ、違ったその前に私から気まぐれメールを出してたんだった。

夏に京都へ行った話をして(京都っていうのは私の実家で、W君も京都在住なわけ)、

その話というのは、たまたまK高校(Wと私の母校)の近くを通りかかり、それはある知り合いとの面会のためで、その約束までにちょっと時間が余ったので思い立ってミカの家を探してみたって話。

ミカは、高校2年時、Wもともにクラスメートだった友人。

そのクラスで15年ほど前にクラス会をやった。
15年前、それは45歳のときで、高校卒業後、大学生のころには数回催していたクラス会も長らく途絶えていた。
20数年ぶりのそのクラス会は最初の思い付きのいい加減さに比して、企画途上で大いな盛り上がりを見せ、90パーセント以上の参加率となった。
45人のクラスメートのうち連絡先不明者は2名だった。
その2名のうちの一人がミカだった。

幹事が実家に連絡をして、ミカさんの現住所を教えてほしいと伝えると、なにか不可思議な対応をされた、という。
電話に出た人は、自分は詳しいことがわからないという答え方をし、後日かけ直しても同じような対応が繰り返されるというのだ。
結局クラス会当日までミカの連絡先は誰もわからないままだった。
クラス会ではみな、「どうしちゃったんだろうね」と首をかしげつつ、それ以上の詮索はなにかしてはならない事のような、そんな雰囲気だった。

ミカは高校卒業後、東京の大学に進学した。
ミカの父親は勤務医で、当時お姉さんも既にK大学病院の勤務医と結婚し日吉にお住まいで、ミカはしばらくそのお姉さんの家から大学に通っていた。
私は数回そのお宅にお邪魔したことがある。ミカとは特別に仲の良い関係だったという記憶が私にはある。

そして、ミカも大学卒業後、ほどなくしてお見合いで(義兄の同僚である勤務医と)結婚した。
私はその結婚式に招待されたが、ちょうど就職して間のない時期で、残念ながら東京で催されたミカの結婚式には出席できなかった。
彼女の結婚式に出席できなかった事情について、本当に仕事の都合で行けなかったのか、それは今考えても我ながら解せない。大事な友人が結婚式に招待してくれたのだとしたらよほどの事情がない限り万難を排して出席するのがあの当時の若い女性の選ぶべき行動ではないかと今の私の感覚ではそう思うし、あの当時の自分もそういう気持ちがあったのではないかと思うのになぜ欠席と決めたのか。
ひょっとして結婚式に招待されたというのは私の勘違いで、そもそも招待されていなかったのか?そのあたりの記憶に確信が持てない。我ながら不思議なことではあるのだけれど。

実は私にもミカの実家との不可思議な感触が残るやり取りの記憶が残っている。

私も結婚をして、ふと学生時代を懐かしむくらいの余裕ができたころだったか、もうすっかり交流の途絶えていたミカの現住所を確認するためご実家に電話をし教えてもらえなかったという記憶。
数回そういうことがあり、そこで私はふと思い至る。
「あ、もしかしてミカに嫌われてるのかしら」と。
結婚式に欠席した私のことを友達甲斐のない奴とミカに見限られた?
ああ、そういうことなのか、とその当時の私は了解した。それでも、そんなことで?とか、そんなに気を悪くしたのなら、直接そういう言葉をミカから受けた記憶はないし、どこでそんな気持ちの行き違いが発生しちゃったんだろうという不可解さは私の中に残ったものの、それ以上のことは想像できず、そのままの状態で時間はながれた。
私の結婚生活にも山谷があり、学生時代の友人との齟齬についてそればかりを心にとどめて思い悩むための十分な暇を私は持てる身分ではなかった。

気が付けば20年近い時間が流れ去っていた。
そしてクラス会。

ミカには旧友たちと連絡を取り合えない事情があったということなのか。
そのときになってやっとそういうことに気づいたのだった。

つづく