安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「はじめまして」その11

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「はじめまして」⑪

「あなた、右手にホクロある?」
修一は、夕食の後で、妻に不意に訊ねられた。朋子が修一の右手を覗き込む。
「あ、あるわ。」妻が声を上げた。
言われて修一は自分の右手を見る。ホクロなどないはずだ。
妻が見ているのは、親指の根元にある古い傷跡だった。妻はすぐにそうと気がついて、ちょっとがっかりした様子だった。けれど、その後もしばらく修一の手のひらを見ていた。
「なんだよ。なんか変か?」と修一が言うと、朋子は、「ううん」と言ってから、「あなたの手のひらって、初めて見たわ。」と小さく言った。

大学時代に付き合っていた恋人にその手のひらをしげしげと見つめられた日のことを修一は思い出した。まだ、恋人と呼べるかどうか、付き合いだしてそんなに経っていない頃のことだった。
「私ね、他人の手ってすごく興味があるのよ。興味を持った人の手のひらって特別興味を引かれるの。この手でこの人は何を掴んできたのだろうとか、これから先何を掴むのだろうとか、あるいは何を掴めずに悔しがるんだろうとかね、いろいろ想像してしまうから。」
ちょっとエキセントリックなところのある女性だったけれど、修一は自分の手のひらをいつまでも眺めている女性にひどく心動かされたことを覚えている。
妻は、そういえば今まで一度も自分の手のひらに興味を示してはくれなかったな、と修一は思う。この手でまだ掴みきれないものの影が修一の心をよぎっていった。
朋子の手は小さい。眠っている妻の右手を修一は長い時間見つめていたことがある。この人のすべてを知っておきたいと思いながら、眠る新妻の手のひらだけを飽かずに眺めていた、そんな夜があった。そして、その妻は、絶対に夫に許さない部分を秘めていた。

朋子は、夫の手のひらを初めてじっくりと見た。近藤が、「手先の器用な人には、親指の付け根にホクロがある」という話をしたのは、今日の面談でのことだ。その位置にホクロを見つけた、と思ったがそれは古い傷痕だった。そんなところに傷があることももちろん知らなかった。いつつけた傷なんだろうか、朋子はふとそんなことを思った。少年だった頃のものなのだろうか。夫の少年時代を想像してみた。渉に似たその少年が、転んで手から血を流している。痛みをこらえて唇をぎゅっと結んだ少年の姿が朋子の脳裏にしばらく消えずに残った。

翌週の面談で。
「春菜さんに何を望むか、という宿題でしたね。」
「はい。」
「ひとつだけです。」
近藤の問いかけに朋子はすぐに答えられなかった。

「母は私に何を望んでいたのでしょうか。」
近藤の質問とはずれているのはわかっていたが、朋子は、なぜかそんな言葉が出てきてしまった。近藤はそのまま聞いている。

恋人に別れを告げた日のことを思い出した。
「朋子のいない人生は考えられない。」と恋人は言った。その言葉がどんなにうれしかったか。そのときどんなに恋人の胸に飛び込んでいきたかったかを思い出した。でも、そのとき母親の言葉が彼女を引きとめた。
「恋を過大に評価してはいけないわ。恋は感情の産物でしょう。感情は理屈に凌駕されるものよ、あなたが感情に流されたおろかな結論を出さないことを祈っているわ。」
いま、恋人の胸に飛び込んでいきたいと願う私の感情は母の理屈には敵わないものなのだ、と思えた。この感情はおろかなものという評価が下されるものなのだ、と。そして、恋人と別れてきた朋子に母は、あなたが決断したことを誇らしく思うわ、と言った。これは私が決断したこと、誰に強いられたことでもなく自分の意志で決断したこと、と朋子は母に確認させられたのだった。

思い出したことを、近藤に語った。
「私は母の望みに逆らえなかったことを悔やんでいるのでしょうか。」
「自分ではどう思いますか?」
「今までそんなことは考えたこともありませんでした。でも、先週先生に春菜に何を望んでいるかと問われたとき、私は母のことを思い出したのです。」
「続けてください。」
「母の意に背くことは考えられないことでした。母はいつも冷静で、理屈では敵わなかったし、母に否定されることは恐怖でした。」
「私は、春菜が小さいときから私の言うことを聞かないのが我慢なりませんでした。」
「私は母の言うことはなんでも従ってきたのに」
「春菜が自分の意志を通そうとすると憎しみが湧いてくるんです」
「私は子どもをかわいがれない自分を見たくなかった。」
「なるべく春菜と関わりたくなかった」
「春菜は私の子どものくせに私を自分に従わせようとしているような気がして」
「春菜に望んでいたのは、私に完全に服従することだったのだと思います」
そこまでを一気に話し終えて、朋子は黙り込んだ。

「それが、あなたが春菜さんに望むことという宿題の答えですか?」と近藤が問いかけ、
「違うと思います」と朋子ははっきりと答えた。

「違う?」
「私は、春菜に笑ってほしい・・・」
朋子は自分の口からふともれ出たような言葉をもう一度自分で反芻して、もう一度言葉にして近藤に伝えた。
「春菜が笑ってくれたらそれだけで十分です。」
「そうですか。」近藤はしばらく無言でいたが、朋子に向かって、「私は春菜さんともこの半年間たくさんのおしゃべりをしました。どんな話をしたかは、今までお母さんには話していませんでしたね。今日春菜さんと話したことをお母さんに申し上げましょう。」
朋子は、どきりとした。春菜が近藤にどんな話をしているかは、敢えて聞かないことにしていた。近藤が伝えてこないことがひとつの答えなのだろうという判断もあったから。
「春菜さんはお母さんのことを好きだって言ってましたよ。」朋子は、近藤の顔を見た。意外な言葉だったから。「でも、ママは私をあまり好きじゃないかもしれない、とも。」
「そうですか。」朋子は、そうとしか言葉が出なかった。
「で、宿題を出したんですよ、春菜さんに。ママに好きって言ってみたら?って」
「で、お母さんへの宿題です。春菜さんに笑いかけてあげてください。
春菜さんの笑顔が見たいなら、まずお母さんがいっぱいいっぱい笑顔を見せてあげてください。できるでしょう?」
「はい。」とだけ答えて朋子は言葉が続けられなかった。

つづく


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連載小説「はじめまして」その10

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「はじめまして」⑩

通院をはじめて半年が過ぎようとしていたその日、診察室の中に入ると近藤は、窓からの明かりの逆光でシルエットになっていた。朋子は、少し猫背で机に向かうその姿にまたある面影を重ねてしまった。
まぶしそうに目を細めてドアのあたりにたたずむ朋子を見て、近藤は看護士にカーテンを引くように指示した。我に返って、近藤の前の椅子に腰掛けながら朋子は落ち着かない気持ちにとらわれた。
「この一週間の春菜さんの様子はどうでしたか?」と近藤が話し始めるのを聞き終えてから、朋子は口を開く。

「私は…」
「はい」近藤は何事でもなさそうに耳を傾ける。
「私は結婚前の恋人が忘れられません。」
朋子は、自分で何を言い出したのかわからなかった。唐突にそんな言葉が出てきて朋子自身が驚いた。そんなことは結婚以来言葉に出したことなどなかった。意識の表層に浮上させたこともなかったのに。

近藤は、そういう話をはじめた朋子に対して、まるで世間話の続きを聞くような調子で特に表情も変えずに、デスクと朋子との中間くらいに体を向けて、カルテに何か書き込みながら聞いている。
朋子は、斜めの角度の近藤が、大学時代の恋人の渉に似ていると思った。
最初の面談の日、近藤の微笑にそのかつての恋人の面影を垣間見ていたがなるべく考えないようにと努めていた。
近藤が正面を朋子に向けた。正面から見るとそんなに似ていないかな、と朋子は思う。
「渉という名前でした。息子にその名前をつけました。主人は知りません。」
「そのことを負い目に感じておられる?」
「感じているのかもしれません。」
「春菜さんの名前は?」
「主人が付けました。」
「その名前をどう思われましたか?」
「別になんとも。どうでもよかったのかもしれません。」
「名前がどうでもよかったのですか?」
「子どもはあまり好きではなかったし、欲しくなかったのかもしれません。」
「春菜はあまり活発な子供ではなく、家の中にじっとしていることが多かったんです。私はもっと外で遊んでほしいと思っていたのに。私の言うことは何も聞いてくれない子どもでした。今も、学校へ行かない日は一日中部屋の中にいます。」

「春菜さんには何を望んでいますか?」近藤が、穏やかな口調で問いかける。
「え?」
「今ひとつだけ春菜さんに望むことがあるとしたらそれは何でしょうか?」
朋子は考え込んだ。
私は春菜に何を望んでいるのだろうか。学校へ行ってほしい。それはもちろんだ。でも、ただ学校へ行ってくれればいいのだろうか? 
春菜が学校へ行きたがらなくなり始めたころは、とにかく学校へ行かせることばかりを考えていた。学校へ行ってくれさえすれば安心できた。いま、そう思えなくなっていることに、近藤の質問から気づかされた。
しばらく考え込んでいる朋子を見て、
「では、宿題です。次回の診療までに考えてきてくれますか?お母さんが春菜さんに望んでいることです。ひとつだけ、一番望んでいることは何か、です。いいですか?」近藤はそういい終えてカルテに向かった。

面談室を出ると待合室のソファで春菜は眠っていた。上半身をソファに投げ出すようにして。まぶたの周りにうっすらと涙がにじんでいた。朋子は春菜の頭が投げ出されたところにそっと腰掛けて春菜の小さな頭を自分の腿のあたりに乗せた。春菜がそっと目を開けた。
「眠ってていいのよ」と声をかけると再びまぶたを閉じた。朋子は面談室での近藤とのやり取りを反芻した。

渉という恋人がいたことなど長く忘れていたはずだった。自分で選んだ結果のことだったのだから。後悔はないはずだったのだから。私は幸福な主婦だったのだから。昔の恋人を恋しがるなんて惨めな生き方などしていなかったはずなのに。朋子の自問に、肯定も否定も返してこない朋子がいた。

膝に抱えた春菜の小さな頭部。こめかみにホクロがある。修一と同じ場所。

朋子は不意にある記憶がよみがえる。朋子の右の太ももの内側にホクロがあることを渉との最初の行為のときに指摘された。
「僕だけが知ってるんだな。」と若い恋人は何度か言った。
「誰にも見せたくないな。」とも言った。結婚したあとも、夫にそのホクロを知られたくなかった。
朋子は、自分が結婚生活の中で犯してきたことの姿がぼんやりと脳裏を掠めていくような気がした。今朝、夫が自分の体に触れたときに感じた小さな嫌悪や憎悪を恥ずべきものだと思えた。そういう感情を隠し持った妻を抱く夫の孤独にはじめて思い及ぶような気がした。涙があふれて零れ、春菜のこめかみあたり落ちた。

つづく


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連載小説「はじめまして」その9

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「はじめまして」⑨


翌週の面談では趣味について話した。
朋子は手芸が得意で結婚前からパッチワークの同好会に入って展覧会などにも出品していること。学生時代から母の勧めでフランス語やテーブルコーディネートの教室に通っていたこと。今も、時間に余裕があるときは続けていること。そういえば、パッチワークも母の勧めではじめていたこと、などを話した。
「よいご趣味をたくさん持ってらっしゃるじゃないですか。」と近藤がいった。
「宿題にしてまで考えていただかなくてもよかったですね」と言われて朋子は本当にそのとおりだと思った。
先週、趣味は何ですかと聞かれてなぜすぐに答えられなかったのだろう、と自分で訝った。その日持っていたバッグも手製のパッチワークで作ったものだった。近藤に見せると、「すごいなあ、ほとんどプロの技じゃないですか。」とそのバッグを手にしてしきりに感心した。朋子は、とてもうれしかった。
近藤は、「手を見せてくださいますか?」と言って朋子の右手を取った。ドキッとした。
「あ、やっぱり!」と無邪気な歓声を上げる近藤。
「ほらほら、ここ」と言って朋子の親指と人差し指の間を指して、「ここにホクロのある人は手先が器用だって言われてるんですよ。僕にも同じところにあるでしょ。」と言って自分の右手を見せる。同じところに朋子のものよりやや大きめのホクロがあった。朋子自身そんなところのホクロは意識したことはなかった。まして手先が器用な証拠などという話も聞いたことはなかった。近藤の郷里だけの言い伝えなのだろうか。
「僕も小さいときから手先が器用だって言われて、医学部に入ったときも外科医になれってよく言われましたよ。」ハハハと笑いながら近藤は楽しそうに話す。
「ご主人にもあるかもしれませんね。プラモデルが趣味なんて手先が器用な証拠なんだから。」と言い添えた。
修一の右手をじっくり見たことなどなかった。それよりもなぜ趣味を問われたときに自分はすぐに答えることができなかったのだろうと、その疑問が朋子の心にうっすらと残っていた。

朋子の記憶の中で最古のものであろうひとつのシーンが蘇る。
家の玄関を出たところで、朋子は誰かに抱きかかえられている。両腕の中に収まってしまうほどに朋子自身は小さくて弱い。その腕の中にいる自分に納得できないでいる。別の腕を求めて必死で抗議しているつもりなのに、その抵抗を表すほどの力が朋子にはない。二つか三つの頃なのだろう。視界がぼやけている。それは、朋子の目にたまった涙のせいである。ぼやけた視界の中で、求めている人の、母親の姿がどんどん遠ざかっていく。朋子はあきらめる。抵抗を解いて見知らぬ人の腕の中にいる自分を納得させる。
「朋子ちゃんはおりこうさんね。」その声に朋子は自分を抱いている人の顔を見上げるとそこには母がいる。遠ざかっていったうしろ姿を狂おしく恋しがったはずのその母親に抱かれている自分に気がついて混乱する。
これは、記憶の中のシーンというより長年彼女の中でくり返し再生されてきたイメージ映像なのかもしれない。

母を恋しがる幼い自分と、母の近くにいても寛げない自分が時間を越えて今も朋子の中にいる。
「朋子ちゃんはおりこうさんね。」と母が朋子を誉めるとき、ほんの一瞬母との距離が縮まるような気がしていた。母の意のままになる自分でいることが朋子にとっても心地よかった。でも、本当にそうだったのだろうか。

それから何度かの通院があり、そのたびに近藤は春菜とは直接関係のない世間話のようなことばかりを朋子とした。朋子はぼんやりと気がつき始めていた。私が春菜をあんな風にしたのかもしれない、と。でも、それはまだあまりにぼんやりとした考えだった。私の何が間違っていたのだろうか。間違っていた?どこで私は間違っていたの?
近藤との面談は、今まで自分が見なかった部分に自分の視線を向かわせる作用をしている、そんなことを感じ始めていた。

つづく

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連載小説「はじめまして」その8

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「はじめまして」⑧
学校から紹介された病院に春菜を連れて行きますね、とある朝朋子に告げられた。小児専門の国立病院の心療内科だという。医療的処置が必要なところまできているのか、と修一はたじろいだ。修一には言いたくて言えない思いがあった。春菜に必要なものは医療ではなく母の朋子の愛情なのではないか、と。春菜をもっと愛してやれないのか、と。その言葉は妻にもっと自分を愛せと懇願することになるような気がして言い出せなかったということを、もう少し後になってから修一は自覚したのだが、このときは、なぜ、そう言えないのか、と自分を訝しがっただけだった。

朋子は、混乱したままだった。修一は無理をさせるなと言うが、学校へ行かないで春奈はどうなるのだろうと、その不安のほうが先に立った。学校へ行こうとしない春菜の内部で何が起こったのかわからなかった。いじめられているのか、それならそのいじめっ子を学校側に訴えて処分してもらわなければ。けれど春菜はそれを強く否定した。お友達はたくさんいる、お友達には会いたいと思う。でも学校には行きたくないと言い張るのだ。
なぜなの?なぜなの?と春菜を問い詰め、明確な回答が得られないとわかると今度は自分の内部でその質問を繰り返した。余計に回答はどこにもないと思えた。理由がわからないということが、朋子を不安にさせた。

春菜を伴い受診した病院で、自分の生育暦を問われた。なぜ私の事を聞きたがるのだろうと思わずにはいられなかった。自分と同年代のその女性医師に向かって、朋子は、父は厳しかったが深い愛情で自分を包んでくれた、母は仕事をもっている人だったが、そんな母親を誇りに思っていたからさびしく思うことはなかった、などと説明すると興味深げにそれを丹念にノートに書きつけるその医師を見て、私に関係があるというの?と問いただしたかった。春菜の登校拒否が私の責任だと言いたいの?と。

春菜はその医師に何も話そうとしなかった。しかし、それがその医師に対する反発からなのか、母と同席の場では言いにくいことがあるからなのか、医師の判断で、途中から朋子は退出させられた。理屈ではその方がいいという判断なのだろうとわかっても、感情が反発してしまった。その女性医師に対しては最初から気に入らなかった。
帰りの電車の中で、朋子は、春菜に「感じの悪い先生だったよね、別の先生に変えてもらったほうがよくない?」と聞いてみた。春菜は「別に」と言ったが、朋子は春菜も気に入っていないはずだと確信した。翌週の診察のとき「春菜が話しにくいといっていますので、担当を変わっていただきたい。」とその女性医師に直接話した。
まだ一回では何も判断できませんけど、と言いよどみながらも検討してみましょうとその女性医師は困惑気に答えた。翌週から近藤が担当することになった。

最初の面談では世間話のような会話から始まった。
「趣味は何ですか。」との問いに朋子は、趣味って何だろうと考え込んだ。
考え込む朋子に「ひまな時間は何をしています?」と近藤は補足するような問いに変えた。答えがスムーズに出てこないことに苛立ってというのではなく、答えやすいようにとの配慮なのだろうと朋子は感じられた。女性医師に対する違和感は近藤には感じられなかった。
「ひまな時って主婦にはそんなにひまな時間があるわけじゃありません。」と答えてみる。
「もちろん、そうでしょう、うちの家内もいつも言ってますよ。主婦には休日がないって。それでも、たとえば無理に時間を作ってでもこれがしたい、というようなものはないですか?ちなみに家内はテニスをやっていますよ。ひまがないっていいながらちゃんとそういう時間は捻出してます。僕だって、これでもかなり多忙ですけどね。笑われちゃうかもしれないけどプラモデルが趣味なんですよ。」
「あ、主人がプラモデル作っています。船の模型をいくつも作って、もう飾るところがなくて困るんですけど」
「ああ、そりゃいい。ご主人とは話が合いそうだなぁ。」
「主人は五十歳なんですよ。」
「ご主人の年齢にご不満がありますか。」
「いえ、そうではなくて、話が合いそうだとおっしゃったんで…」
「あなたはご主人と話が合わないと感じられているのですか。」
「話が合うってどういうことなんでしょうか。」
「共通の話で盛り上がれるっていうか。話をしていて楽しいとか・・・」
「だったら話は合いません。彼の興味のあることに私は興味をもてませんし。」
「なるほど」
近藤は、カルテに何か書き込んだようだった。
「では、来週までに考えてきてください。」
「何を?」
「趣味です。何をしている時間があなたにとって楽しいと感じられるか、でも構いません。」
そう言いおいて、「では、来週の予約をしていってくださいね。」
と朋子に微笑んで見せた。その微笑む表情に朋子は思い出される面影があったが、無理に封じ込めた。

つづく


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連載小説「はじめまして」その7

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「はじめまして」⑦


春菜の変調を修一は痛ましく見ていた。無理をさせないほうがいい、と妻には何度か言ってはみたが、その言葉は朋子を混乱させるだけのように見え、次第に口をはさめなくさせていた。そのころ修一は会社で大きなプロジェクトを抱えていた。家庭内を覆いつつある暗雲を掃うだけの気力と時間的余裕を持たなかった。春菜の苦境にもつい目そらしがちだった。いや、見るに忍びなかったのかもしれない。春菜の痛ましさは自分の痛ましさではないかと、そこへ思い及んでしまうことが怖かったのかもしれない。数ヶ月のち、やや仕事のほうにも余裕ができたころ、春菜は完全に学校へ行けなくなっていた。朋子もまた、無理に学校へ連れて行くことに疲れてしまったのか、朝自室から出てこない春菜をヒステリックに呼び立てるということもしなくなっていた。
修一はある日曜日、春奈に、「みんなでドライブに行かないか」と誘ってみた。閉じられたドア越しに声をかける。そのドアの向こうへ長く入っていない。朋子に聞くと、春奈は自室に朋子が入るのを激しく拒否しているという。返事はない。朋子によると、ここしばらくはほとんど部屋の中に閉じこもりになっていると言う。渉が、「ドライブ?僕も行っていいの?」というのを朋子は、「今日は、サッカーの試合でしょ。早く準備しなさい。」と急き立てている。春奈が、修一の誘いに応えるはずがないと思っているようだ。修一はそれ以上声をかけなかった。もし、自分の呼びかけに春奈が応えたら、朋子は傷つくのだろうか、と考える修一もいた。
三十分ほどして、朋子と渉は出かけた。当然のように車はその二人が乗って行ってしまった。リビングの飾り棚の前で、そこに収まっている二枚の家族写真を修一はしばらく見ていた。ドアの開く音がして、春奈が階段を降りてきた。。
初夏の頃に短くしていた髪ももうずいぶん伸びている。修一は春奈に痛ましさを見てしまう。朋子と渉が出かけてしまった後の家の中に置き去りにされたもの同士のような痛ましさの共感を春奈に抱いてしまう。
春奈が自分にそういう共感を見出しているとは思えないが、とにかく、春奈は部屋から出てきたのだ。拒絶はしていない。
「朝ごはんは食べたのか?」と聞くと、「食べた」と答える。
「車、ママが乗って行っちゃったんだ。」と言うと、「知ってる」と答える。薄いレースのカーテン越しの真冬の澄んだ日差しに照らされて、春奈の白い頬が際立つ。その表情は、硬いままだが、強い拒否はない。修一はさっきから春奈が自分を拒否するものと決め込んでいたことに気がついた。気がついてみると、春奈の別の表情が見えてくる。小さいときから、母親よりも自分になついていた春奈を思い出し、修一は、いつの間に自分は春奈に拒否されていると思い込んでいたのだろうか、と考える。春奈は、大きくなるごとに朋子に似てくる。その相似が、春奈と自分の距離を作っているのか、と考えてみる。朋子との間の距離に修一は無意識のうちにも傷ついているということなのだろうか。その距離を縮めたくて修一は春奈の髪に触れてみる。
不意に春奈が顔をあげて、「ママがいなくてほっとする。」と言った。「ママの言うとおりにはしたくないの。」と、小さく、けれど修一に訴えるように春奈はつぶやいた。修一は、はっとする。そのことばは、ことばだけで捉えるなら、春奈の朋子への拒否に聞こえる。さっき見た、美しい家族写真の中の自分の家族が、お互いの間に拒絶のドアを立て、お互いを隔てあっている、そんなイメージの中で暗澹とした気持ちになる。しかし、春奈のこの痛ましさは何なのだろう。そのとき、春奈が、「パパがかわいそう。」と言った。言った後で、後悔したように階段を駆け上がっていった。春奈もまた、父親を痛ましく見ていたのか?修一は、リビングに取り残されたまま、その誰もいない部屋に自分さえもいないような心もとなさを感じてしまった。
その日、夕方になって朋子が帰ってきたとき、修一は春奈のことばを朋子に伝えられなかった。


つづく

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連載小説「はじめまして」その6

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「はじめまして」⑥

夏休みには一家でハワイ旅行へ出かけた。
寺の嫁になっていたらこんなことは適わなかったはずだ、と朋子は自分の家族の形に満足した。ハワイの絵空事のような色をした青い空を背景に微笑む一家の新しい家族写真が戸棚を飾った。

中学一年の二学期が始まってまもなく、突然春菜が学校を辞めたいと言い出した。
いや、一学期の期末試験が終わった頃に前兆はあった。長く伸ばした髪を毎朝朋子が結ってやっていたのだが、ある朝、洗面所で春奈はその髪をばっさりと自分で切り落としたのだ。洗面所の床に切り落とされた髪が無残に散らばっていた。朋子が驚いて、叱って「なぜこんなことをするの?」と問い詰めたら、「暑かったから」と春奈は答えた。そして、こんな髪では学校に行けないから今日は休む、と言った。朋子は、春奈の行動に不可解なものを感じながらも、この子は小さいときからとにかく私を混乱させてばかりいた、との思いで、その日の出来事もその範疇のことだと思うことにした。午後から美容院に連れて行き、ショートカットにしてもらったが、春奈はその髪型が自分には似合わないから嫌だと言ってはときどき学校を休んだりした。けれど夏休み直前のことで授業もほとんどない時期だったので朋子は、春奈のいつものわがままだと、その程度に考えてそれ以上はあまり深く考えなかった。そのうち夏休みになり、春奈は特に問題もなさそうな、落ち着いた様子でその夏休みを過ごしているように朋子には見えていた。ハワイでも、春奈は楽しそうだったではないか。戸棚の家族写真を振り返って朋子は途方にくれるしかなかった。

順調なはずではなかったか。ここまで私の人生は何の曇りもないはずではなかったか。春菜は希望に燃えて中学生になったはずではなかったか。私は穏やかな満ち足りた家庭の主婦だったはずではなかったか。朋子の自問に否と答える朋子はいなかった。

毎朝嫌がる春菜に懇願するように着替えさせ車で学校まで連れて行った。
車の中で、朋子は「どうして、学校が嫌なの?いじめられているの?」と聞いてみたことがあった。春奈は何も答えようとしない。校門の中へ押し込むように春菜を一旦学校の中に収めてしまえば少し安心できた。慣れるのに時間がかかっているだけ、だってあんなに制服が似合っているのに。他のどの子よりこの学校の制服が似合っているのに・・・・。

つづく

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連載小説「はじめまして」その5

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「はじめまして」⑤

朋子は、その年三十四歳になっていた。修一は妻の美しさが時々まぶしかった。見合いの席ではじめてみた時、目眩がするほどだった。

小さい女性だな、というのが次の印象でそれも修一の好みだった。顔も手もどこも小さくて、消え入りそうな風情というのだろうか。体の大きい修一は、だからなのか小さい女性が好みだった。女性だけではなく、ミニチュアの模型など、とにかく自分の体のスケルとは違った小さきものに愛着してしまう性向があった。
結婚の承諾をもらったときは心底うれしかった。結婚までのデートで、自分と比べてあまりに小さい朋子を壊れるのではないかとの思いから抱きしめることも憚られた。もちろん抱きしめてキスをしたことぐらいはあったが、自分の腕の中で震えるようにしているその女性をどう扱っていいのか戸惑うほどだった。結婚前にはそれ以上のことができなかった。
初夜で初めて触れた朋子の肌は透き通るように白く、抱きしめると本当に壊れるのではないかと思えた。真っ白な繊細な陶磁器を思わせた。それは朋子の体の意外に冷たかった感触からのイメージでもあった。修一は朋子を愛しても愛しきれないような、自分の愛情が朋子のどこにも響いていないようなもどかしさを感じた。そのもどかしさは結婚生活の中でずっとずっと拭いきれないでいる。
三十四歳の妻はまだまだ若く、美しかった。育児や家事で不首尾な面が多々あったが、修一にはそれが朋子の未成熟さゆえであり、その妻の未成熟ささえ愛しく思えるのだった。
朋子は修一の性的な欲求に対してあまり積極的には応じてくれない。時折狂おしく妻に対して欲情するのだがその欲情をそのまま妻にあらわにすることが躊躇われた。三度に一度ははっきり拒まれることもあった。寝入り端や早朝のまどろみの中では比較的応じてくれるという感触があり、修一はいつも夢うつつの、心ここにあらずといった風情の無反応な妻の体しか抱けない状況にいる自分を悲しむこともあった。
渉を溺愛する妻を見ると心がざわつくこともあった。妻が「渉」と息子の名前を呼ぶときの声に何かを感じてしまう自分がいた。そういう自分をおろかだと思いながらも渉に嫉妬しているとはっきりと自覚することもあった。
修一は、定期入れに妻の写真を入れている。そのことを職場の同僚や部下たちは知っていて、当然冷やかしの対象になる。
「きれいな奥さんですね。」と部下たちの儀礼的とばかりもいえないほめ言葉にも、「実物はもっと美人だぞ。」などとやり返して、ことさらに愛妻家である自分をアピールしてしまうことがある。息子に嫉妬してしまうなどと愚かでみっともない自分をとことん戯画化したいと思っていたのかもしれない。ただの愛妻家として処理して笑い話の範疇にとどめておきたかった。おきたかったなどという言い回し自体がそれ以外の複雑な思いをはらんでいることの証なのだが、それ以上のことはなるべく考えまいとしていた。
渉が朋子の希望した私立の小学校の入試に合格したとき、もちろん修一も喜んだが朋子の喜びぶりの尋常でなさを見せられるとやはり心がざわつくのだった。そして、その母親を見る春菜の表情を修一は痛ましく見たのだった。
妻がいて自分がいて春菜と渉、まずまず恵まれた家庭だろう。
渉の入学記念にと家族写真を、ちょっとは名のあるプロのカメラマンに撮影してもらった。その家族の肖像はしゃれた写真立ての中で、いま、リビングの飾り棚の一番目立つ場所に収まっている。美しい、整ったその肖像が時折修一には見つづけられない気分にさせてしまうことがあった。きっと考えすぎなんだろうと思いながら、そんな自分を笑い飛ばしてしまおうと思いながら、笑い飛ばしてしまうことに失敗してしまうのだった。

以前よりは扱いやすくなった春菜の変化を見て、朋子は、中学は私立に入れたいと考えるようになった。春菜にその自分の希望を話したとき、春菜は受験すると答えた。朋子は、初めて春菜が自分の意に添う反応をしてくれたような気がしてうれしかった。すぐに進学塾へ通わせる手はずを整え、週に三回の塾への送り迎えを負担とも思わず朋子は春菜のお受験に気合を入れた。

ちょうどそのころだったろうか、テレビのドキュメンタリー番組で四国の霊場のひとつである古刹が取り上げられ、その寺の人々の暮らしが紹介された。    
老いた住職とその妻と跡取りの息子と嫁が、お遍路さんを温かく迎えるというヒューマ二ティあふれる番組だったが、それをたまたま見ていた朋子はもしかしたら自分のもうひとつの人生だったかもしれないと、その寺の嫁という立場の女性を注視した。その寺はもちろん朋子のかつての恋人が跡を継いだ寺とは違ったが、自分にも同じようなもうひとつの人生があったのかもしれないという気持ちで見てしまったのだ。そして、それを選ばずに、今ここにいることを肯定した。私にはああいう生活はできなかったわ。一日中舅や姑と過ごし、自分の自由な時間もなさそうな生活は自分には耐えられなかっただろうと思えた。
郊外とはいえ、しゃれた一戸建てを手に入れ、健康な二人の子どもに恵まれ、穏やかで自分を愛してくれる夫を持ち、習い事や趣味に時間を使い、時には渉の学校の母親仲間とランチを楽しむという生活を朋子は自分の思い描いていたとおりの結婚生活ではないかと確認するように振り返った。
自分の育った家庭と似ている家庭。
私の選択は間違ってはいなかったとその夜ベッドに入ってからもさっき見たテレビの映像を思い出し何度も確認した。その夜、朋子は初めて自分から夫に体を寄せた。修一は驚き戸惑いつつも朋子を抱いた。夫の行為の中で朋子はやはり満足できない自分を知ってしまったのだが。
春菜は、やはりなかなか気難しい子どもではあったが、彼女なりに母親の期待に応えようとしているように見えた。朋子は渉と比較するまいと、また彼女もそれなりに努力した。母と娘の、蜜月とまでは行かないが以前に比べれば安定した関係の中で、中学受験という大きな目標に向かって数年が穏やかに過ぎた。
第一志望は叶わなかったものの、大学までエスカレーター式に進学できる女子校に合格が決まり、朋子は素直に喜んだ。春菜もうれしそうだった。修一は殊のほか喜んだ。
「ここの制服は春菜にとてもよく似合うわ。」と朋子は、性格はぜんぜん似ていないのに容姿は年齢とともにますます自分に似てくる春菜を誇らしく思う自分に酔った。

つづく



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