読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

栄光の人生

連載小説の合間の箸休め。ちょいとつまんでいきませんかぁ~
f:id:quietsea526:20170326190427j:plain

夕べ入浴中にはっと気がついたことがある。

ミモザの冬の入浴は長い。夕べも40分くらい入っていた。
60年も生きていると入浴の流儀もおのずと決まってくる。
ミモザはいの一番に髪を洗うのである。
次に左腕を洗う。そしてスポンジを持ちかえて右腕を洗う。
次に・・・
おっと、本日のテーマは入浴の流儀ではなかった。

入浴中に「はっ」と気づいたこととはなにか、であったな。
はっと気づいたこと、それは、
「私は、60歳になって、おもろいおばはんとなっているらしい。おもろいおばはんであることは私の人生の成功ではないのかな」ということである。

ミモザは若い頃から概して「おもろい女」と言われていた。
うら若き乙女である私に、男が捧げる賛辞がこれであったわけだ。
美しくもなく、巨乳でもなかったので、異性を振り向かせるには「おもろさ」しかないことを聡明なミモザは感知していたのであろうか。
「おもろい女」といわれて喜んでいたのだから哀しい話である。
しかし、美しくもなく巨乳でもなくおもろくもなければ、もっと哀しい事態になっていたかもしれない。
謙虚に、おもろい女であることに喜んでおいてよかったのだろう。

とはいえ、決しておもろい女を目指していたわけではない。
これでも内面は繊細で感受性豊かで傷つきやすい乙女だったのだ。
そういう本来の持ち味は、美しい女に備わっていて初めて価値が認められるらしいというい事を聡明なるミモザはわかっていたのである。
繊細さや豊かな感受性や傷つきやすさは豚に食わせてしまうが良い、と若きミモザは悟ったのであろう(ああ、やっぱり哀しい話や)。
気がつけば、すっかりおもろい女と成り果て、その評価に喜ぶミモザが出来上がっていたのである。

そのようにして屈折しながら歩んできたミモザのおもろい女としての60年。

昨日、とあるSNSにおいて、どっかのおっさんに「おもろいおばはん」と言われたのだった。
若き日、屈折しながら手に入れたおもろい女としてのおもろさが、時を経て「おもろいおばはん」を形成したことは不思議な事態でも驚くことでも「はっと」することでもない。
はっとしたのは、「おもろいおばはん」はただのおもろい女とは違うのだ、という気づきである。
「おもろいおばはん」とはおばはんとしては間違いなく栄光である。
おばはんヒエラルキーの頂点ではないのだろうか(違う?)。
60歳のミモザは、「おもろいおばはん」と言われて満足である。幸せであった。

ミモザは、この人生で栄光を手に入れたのだ。

f:id:quietsea526:20170326191621j:plain


にほんブログ村 テレビブログへ
にほんブログ村


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ
にほんブログ村



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村


f:id:quietsea526:20170326191406j:plain