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安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「電話」⑤

電話 第5回
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それから私は新しい恋をしたり、別れたりした。
ときどき吉本を呼び出して飲んで愚痴を聞かせたりしたけどあの夜のことはお互い口にしなかった。
吉本はその年の教員採用試験に落ち、翌年もう一度挑戦して合格し、大阪府下の中学校の教師になった。
卒業から3年後、私は両親の勧める人と見合いをして結婚した。仕事は面白くなり始めていたけれど、私は自分の弱さについて知りすぎる経験をしてしまっていた。
結婚が決まったことを吉本に伝えると、お祝いやるわ、と言われて喫茶店で会った。
彼が紙袋から取り出したのはマリリン・モンローの裸体を描いた油絵だった。
「僕が描いた。時間があったらおまえのヌード描いたったんやけど、急に言われても描けへん。夫婦の寝室に飾っとけ」
私はその絵にしげしげと見入った。吉本が絵を描くという話は初めて聞いた。吉本のことなんか知らない事の方が多い。
「ありがとう」と言って受け取り、共通の友人の消息などを交わし合い、喫茶店で流れている有線の歌について、好きだとか、そうでもないとか、そんな話をだらだらとした。
ああ、そういえば、こんな会話に時間を費やすことに何の罪悪感も抱かない時代はもう終わったんだなとそのとき妙にそのことが胸に迫るように思い知らされた覚えがある。
阪急の河原町駅へ降りる階段の前で別れ際、「僕も結婚するかもしれへん」と言った。
ずいぶん前に看護婦の彼女がいるという話を聞いたような気がして
「看護婦さんと?」と言ったら、ちょっとびっくりしたような顔をして「うん。」と言った。
二人でなぜか笑った。
 大学のキャンパスで、他愛ない悩みにうなだれていた日々の、なんと甘美であったことか。この街で過ごした青春の日々が完全に幕を閉じたことをあの時吉本との短い笑いの中で二人ともが気がついたのかもしれない。
誰とでもなく私は吉本とその瞬間を見送ったのだ。青春の葬送を図らずも終えた後、もう一度二人で笑いあい、吉本は雑踏の中へまぎれて行った。
東京へ去った男は2時間ドラマなどでときどき端役でテレビに出てきたりしていたが、私はもうすっかり忘れてしまえていた。
自分の弱さを思い知らされて臆病になった人間のその後の人生は、大きな不幸に見舞われることはなかったけれど、当然のように輝くような幸福とも縁遠かった。
人並みの苦さ程度の苦労に辟易しているうちにアラフォーとやらもとおに過ぎてしまった。
五年前に父を見送り、その後急に弱った母の介護をする日々。

土曜日、約束の時間に吉本に電話する。
 「おぉ、なんや。何でも聞いたるぞ。」
吉本の声を聞きながら私は目の前の景色が一瞬鮮やかになり、次の瞬間薄茶色のトーンに沈んでいくさまを見たような気がした。吉本に聞きたかったことが、急にどうでも良いようなことに思えたのだ。
 「まあ、ええか、もう聞いてもらわんでもええわ。」
 「なんやねん。あほか」
 私はいま、ダンナ以外の男に恋をしてるんやけど、その男とセックスしてもええと思う?と聞きたかったのだ。なんだか気持ちが行き詰まって、誰かに答えを出してもらいたかった。
 聞かなくても吉本の答えは分かるような気がした。そんな答えは聞かなくたっていいのだ。
 「ほんなら、切るで。切ってもええか。」
 「うん。」
 「あ、そや、死ぬまでにもういっぺんだけしよな」
 「あほちゃうん」
 吉本は私のその答えに満足したように大笑いし、その笑い声を残して電話は切れた。

おわり


読んでくださった方、ありがとうございました。




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