安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「はじめまして」その10

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「はじめまして」⑩

通院をはじめて半年が過ぎようとしていたその日、診察室の中に入ると近藤は、窓からの明かりの逆光でシルエットになっていた。朋子は、少し猫背で机に向かうその姿にまたある面影を重ねてしまった。
まぶしそうに目を細めてドアのあたりにたたずむ朋子を見て、近藤は看護士にカーテンを引くように指示した。我に返って、近藤の前の椅子に腰掛けながら朋子は落ち着かない気持ちにとらわれた。
「この一週間の春菜さんの様子はどうでしたか?」と近藤が話し始めるのを聞き終えてから、朋子は口を開く。

「私は…」
「はい」近藤は何事でもなさそうに耳を傾ける。
「私は結婚前の恋人が忘れられません。」
朋子は、自分で何を言い出したのかわからなかった。唐突にそんな言葉が出てきて朋子自身が驚いた。そんなことは結婚以来言葉に出したことなどなかった。意識の表層に浮上させたこともなかったのに。

近藤は、そういう話をはじめた朋子に対して、まるで世間話の続きを聞くような調子で特に表情も変えずに、デスクと朋子との中間くらいに体を向けて、カルテに何か書き込みながら聞いている。
朋子は、斜めの角度の近藤が、大学時代の恋人の渉に似ていると思った。
最初の面談の日、近藤の微笑にそのかつての恋人の面影を垣間見ていたがなるべく考えないようにと努めていた。
近藤が正面を朋子に向けた。正面から見るとそんなに似ていないかな、と朋子は思う。
「渉という名前でした。息子にその名前をつけました。主人は知りません。」
「そのことを負い目に感じておられる?」
「感じているのかもしれません。」
「春菜さんの名前は?」
「主人が付けました。」
「その名前をどう思われましたか?」
「別になんとも。どうでもよかったのかもしれません。」
「名前がどうでもよかったのですか?」
「子どもはあまり好きではなかったし、欲しくなかったのかもしれません。」
「春菜はあまり活発な子供ではなく、家の中にじっとしていることが多かったんです。私はもっと外で遊んでほしいと思っていたのに。私の言うことは何も聞いてくれない子どもでした。今も、学校へ行かない日は一日中部屋の中にいます。」

「春菜さんには何を望んでいますか?」近藤が、穏やかな口調で問いかける。
「え?」
「今ひとつだけ春菜さんに望むことがあるとしたらそれは何でしょうか?」
朋子は考え込んだ。
私は春菜に何を望んでいるのだろうか。学校へ行ってほしい。それはもちろんだ。でも、ただ学校へ行ってくれればいいのだろうか? 
春菜が学校へ行きたがらなくなり始めたころは、とにかく学校へ行かせることばかりを考えていた。学校へ行ってくれさえすれば安心できた。いま、そう思えなくなっていることに、近藤の質問から気づかされた。
しばらく考え込んでいる朋子を見て、
「では、宿題です。次回の診療までに考えてきてくれますか?お母さんが春菜さんに望んでいることです。ひとつだけ、一番望んでいることは何か、です。いいですか?」近藤はそういい終えてカルテに向かった。

面談室を出ると待合室のソファで春菜は眠っていた。上半身をソファに投げ出すようにして。まぶたの周りにうっすらと涙がにじんでいた。朋子は春菜の頭が投げ出されたところにそっと腰掛けて春菜の小さな頭を自分の腿のあたりに乗せた。春菜がそっと目を開けた。
「眠ってていいのよ」と声をかけると再びまぶたを閉じた。朋子は面談室での近藤とのやり取りを反芻した。

渉という恋人がいたことなど長く忘れていたはずだった。自分で選んだ結果のことだったのだから。後悔はないはずだったのだから。私は幸福な主婦だったのだから。昔の恋人を恋しがるなんて惨めな生き方などしていなかったはずなのに。朋子の自問に、肯定も否定も返してこない朋子がいた。

膝に抱えた春菜の小さな頭部。こめかみにホクロがある。修一と同じ場所。

朋子は不意にある記憶がよみがえる。朋子の右の太ももの内側にホクロがあることを渉との最初の行為のときに指摘された。
「僕だけが知ってるんだな。」と若い恋人は何度か言った。
「誰にも見せたくないな。」とも言った。結婚したあとも、夫にそのホクロを知られたくなかった。
朋子は、自分が結婚生活の中で犯してきたことの姿がぼんやりと脳裏を掠めていくような気がした。今朝、夫が自分の体に触れたときに感じた小さな嫌悪や憎悪を恥ずべきものだと思えた。そういう感情を隠し持った妻を抱く夫の孤独にはじめて思い及ぶような気がした。涙があふれて零れ、春菜のこめかみあたり落ちた。

つづく


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