安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「はじめまして」その11

f:id:quietsea526:20170603004137j:plain

「はじめまして」⑪

「あなた、右手にホクロある?」
修一は、夕食の後で、妻に不意に訊ねられた。朋子が修一の右手を覗き込む。
「あ、あるわ。」妻が声を上げた。
言われて修一は自分の右手を見る。ホクロなどないはずだ。
妻が見ているのは、親指の根元にある古い傷跡だった。妻はすぐにそうと気がついて、ちょっとがっかりした様子だった。けれど、その後もしばらく修一の手のひらを見ていた。
「なんだよ。なんか変か?」と修一が言うと、朋子は、「ううん」と言ってから、「あなたの手のひらって、初めて見たわ。」と小さく言った。

大学時代に付き合っていた恋人にその手のひらをしげしげと見つめられた日のことを修一は思い出した。まだ、恋人と呼べるかどうか、付き合いだしてそんなに経っていない頃のことだった。
「私ね、他人の手ってすごく興味があるのよ。興味を持った人の手のひらって特別興味を引かれるの。この手でこの人は何を掴んできたのだろうとか、これから先何を掴むのだろうとか、あるいは何を掴めずに悔しがるんだろうとかね、いろいろ想像してしまうから。」
ちょっとエキセントリックなところのある女性だったけれど、修一は自分の手のひらをいつまでも眺めている女性にひどく心動かされたことを覚えている。
妻は、そういえば今まで一度も自分の手のひらに興味を示してはくれなかったな、と修一は思う。この手でまだ掴みきれないものの影が修一の心をよぎっていった。
朋子の手は小さい。眠っている妻の右手を修一は長い時間見つめていたことがある。この人のすべてを知っておきたいと思いながら、眠る新妻の手のひらだけを飽かずに眺めていた、そんな夜があった。そして、その妻は、絶対に夫に許さない部分を秘めていた。

朋子は、夫の手のひらを初めてじっくりと見た。近藤が、「手先の器用な人には、親指の付け根にホクロがある」という話をしたのは、今日の面談でのことだ。その位置にホクロを見つけた、と思ったがそれは古い傷痕だった。そんなところに傷があることももちろん知らなかった。いつつけた傷なんだろうか、朋子はふとそんなことを思った。少年だった頃のものなのだろうか。夫の少年時代を想像してみた。渉に似たその少年が、転んで手から血を流している。痛みをこらえて唇をぎゅっと結んだ少年の姿が朋子の脳裏にしばらく消えずに残った。

翌週の面談で。
「春菜さんに何を望むか、という宿題でしたね。」
「はい。」
「ひとつだけです。」
近藤の問いかけに朋子はすぐに答えられなかった。

「母は私に何を望んでいたのでしょうか。」
近藤の質問とはずれているのはわかっていたが、朋子は、なぜかそんな言葉が出てきてしまった。近藤はそのまま聞いている。

恋人に別れを告げた日のことを思い出した。
「朋子のいない人生は考えられない。」と恋人は言った。その言葉がどんなにうれしかったか。そのときどんなに恋人の胸に飛び込んでいきたかったかを思い出した。でも、そのとき母親の言葉が彼女を引きとめた。
「恋を過大に評価してはいけないわ。恋は感情の産物でしょう。感情は理屈に凌駕されるものよ、あなたが感情に流されたおろかな結論を出さないことを祈っているわ。」
いま、恋人の胸に飛び込んでいきたいと願う私の感情は母の理屈には敵わないものなのだ、と思えた。この感情はおろかなものという評価が下されるものなのだ、と。そして、恋人と別れてきた朋子に母は、あなたが決断したことを誇らしく思うわ、と言った。これは私が決断したこと、誰に強いられたことでもなく自分の意志で決断したこと、と朋子は母に確認させられたのだった。

思い出したことを、近藤に語った。
「私は母の望みに逆らえなかったことを悔やんでいるのでしょうか。」
「自分ではどう思いますか?」
「今までそんなことは考えたこともありませんでした。でも、先週先生に春菜に何を望んでいるかと問われたとき、私は母のことを思い出したのです。」
「続けてください。」
「母の意に背くことは考えられないことでした。母はいつも冷静で、理屈では敵わなかったし、母に否定されることは恐怖でした。」
「私は、春菜が小さいときから私の言うことを聞かないのが我慢なりませんでした。」
「私は母の言うことはなんでも従ってきたのに」
「春菜が自分の意志を通そうとすると憎しみが湧いてくるんです」
「私は子どもをかわいがれない自分を見たくなかった。」
「なるべく春菜と関わりたくなかった」
「春菜は私の子どものくせに私を自分に従わせようとしているような気がして」
「春菜に望んでいたのは、私に完全に服従することだったのだと思います」
そこまでを一気に話し終えて、朋子は黙り込んだ。

「それが、あなたが春菜さんに望むことという宿題の答えですか?」と近藤が問いかけ、
「違うと思います」と朋子ははっきりと答えた。

「違う?」
「私は、春菜に笑ってほしい・・・」
朋子は自分の口からふともれ出たような言葉をもう一度自分で反芻して、もう一度言葉にして近藤に伝えた。
「春菜が笑ってくれたらそれだけで十分です。」
「そうですか。」近藤はしばらく無言でいたが、朋子に向かって、「私は春菜さんともこの半年間たくさんのおしゃべりをしました。どんな話をしたかは、今までお母さんには話していませんでしたね。今日春菜さんと話したことをお母さんに申し上げましょう。」
朋子は、どきりとした。春菜が近藤にどんな話をしているかは、敢えて聞かないことにしていた。近藤が伝えてこないことがひとつの答えなのだろうという判断もあったから。
「春菜さんはお母さんのことを好きだって言ってましたよ。」朋子は、近藤の顔を見た。意外な言葉だったから。「でも、ママは私をあまり好きじゃないかもしれない、とも。」
「そうですか。」朋子は、そうとしか言葉が出なかった。
「で、宿題を出したんですよ、春菜さんに。ママに好きって言ってみたら?って」
「で、お母さんへの宿題です。春菜さんに笑いかけてあげてください。
春菜さんの笑顔が見たいなら、まずお母さんがいっぱいいっぱい笑顔を見せてあげてください。できるでしょう?」
「はい。」とだけ答えて朋子は言葉が続けられなかった。

つづく


にほんブログ村 テレビブログへ
にほんブログ村


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ
にほんブログ村



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村