安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

連載小説「はじめまして」その12

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「はじめまして」⑫

待合室のソファで春菜はまた眠っていた。
いつだったか、ソファで眠っていた春菜の頭をそっと自分の膝の上に乗せてやったことがあった。あの翌週にも春菜は同じようにソファで眠っていたが朋子が近づくと、その顔は眠っていなかった。じっと目を閉じているだけだった。まぶたを無理に閉じているので小さく震えていた。朋子は先週と同じように春菜の頭を膝の上に乗せてやった。この子はこういうやり方でしか私に甘えられないのか、と胸を衝かれるような気がした。
それからは毎週このソファで同じようにしてきた。薬と精算の準備ができて名前を呼ばれるまでの十数分間を母と娘はそうして過ごしてきた。


翌週の面談室で。
「春菜はまだ私に好きって言ってはくれません。」と言うと、「ご自分の宿題はどうですか?」と聞かれ、「私としては精一杯笑いかけているつもりなのですが・・・」と答えると、「感情を伝え合うというのは、多少大げさなところがないといけない場合もあるのです。」と近藤は、朋子の目を見て語りかけた。

「感情というのは自分が思っているほどには他人には伝わらないものです。
お母さんと春菜さんの場合は、特に春菜さんがお母さんの愛情を渇望しているというところがあります。」
その近藤の言葉を朋子は理解できた。半年前の自分には理解できなかっただろうけれど、と朋子は思う。近藤の言葉が続く。

愛を欲している側からすれば、今まで手にできなかったものに対して半ば諦めのようなものが強く残っています。求めても得られないという経験は、辛いものです。求めずにおこうと自分に言い聞かせます。そして自分が手にできたものに対してもまず疑ってかかります。簡単に信じちゃいけないと抑制してしまうのです。信じて裏切られたときのことが怖いんですよ。春菜さんは、今お母さんが笑いかけてくれることに対して、その笑顔をうれしいと思いつつも、うれしいと思っちゃいけないとどこかで自分にブレーキをかけているのかもしれません。

「どうですか?思い当たりませんか?」近藤に問われて朋子は、「わかります。」と答えた。
昨日のことだった。最近は部屋の中だけではなくリビングで過ごす時間も徐々に増えてきた春菜に、朋子は、「パッチワークしてみない?ママが教えてあげるから。」と言ってみた。春菜は一瞬うれしそうな顔をして、「してみる」と
答えた。朋子も春菜のその反応がうれしかった。すぐに寝室に行ってしばらくしまい込んでいた裁縫箱や布を収納している箱を取り出してリビングに戻ってみると春菜の姿がなく、部屋に戻っていた。ドアをノックしてみると、「やっぱりテレビゲームのほうがいい」という返事が返ってきた。朋子は、少し腹立たしいような気がしたがそのまま何もいわずにドアの前を離れた。
そのことを近藤に話すと、「春菜さんは、もう一度お母さんが誘ってくれるのを待っていますよ。」と言った。
「うるさがりはしませんか?」と朋子が質問すると、「子どもにうるさがられるのが怖いですか?」と逆に聞かれ、朋子は、「怖いです。」と答えた。そして、答えながら、それはおかしいことだ、とも思った。
お互いが気を遣い合いすぎて、肝心なところで傷つけあっている自分と春菜の関係の間違いを指摘されたのだとわかった。そしてその間違いは、自分と母親との関係の中にもあったのかもしれない、と朋子は思った。

間違いのない親子関係などあるのだろうか、と朋子は思う。
子どもの不登校という事態に遭遇した母親とそうでない母親がいるとしたら、それは、どちらかが間違っていて、どちらかが正しかったということなのだろうか。もしそうなのだとしたらそういう事態に遭遇した私はただのおろかな母親なのだろうか。おろかな人間の不幸としてあきらめるしかないのだろうか。朋子の自問に、そうではない、と答える朋子がいた。まだはっきりとしたことばにはならないけれど、今自分が遭遇している事態を不幸なことだとは思えない気がする。娘が学校へ行けないという事態は喜ばしいことであるはずがない。けれど、そのことが不幸なことであるとは言い切れないのではないか、と朋子は思う。こういう考え方は、以前の朋子にはできなかったのではないだろうか。何事もなく春菜が学校へ通えていたなら、考えもしなかったことを考えている今の自分を、ただおろかで不幸な母親とはどうしても思えない。今の朋子にはそれ以上のことは分からないけれど。

修一は春菜の表情の変化に気がつきかけていた。学校へ行かなくなってから一日中部屋のなかで過ごしている春菜はもともとの肌の白さがますます際立つようで、夕食時だけは部屋から出てきて家族と夕食を囲むことだけは守っていた春菜を食卓の蛍光灯の下で見るたびに修一は胸がふさぐようだった。春菜はほとんど笑顔を見せなくなっていた。
それがこのところ、その表情に変化が認められるような気がしている。
声を立てて笑うことはないが、いっときの強張ったものが薄れているような気がする。朋子からは、よいお医者様にめぐり合えた、春菜はその医師に懐いているようだという話は聞いていた。
夕食後自室に戻った春菜の後姿を見送って、しばらくしてから修一は春菜の部屋のドアをノックした。拒絶するかと思ったが、ドアを開けて春菜はすぐに部屋の中に招き入れてくれた。

「この部屋に入るの久しぶりだな」
「入りたかったの?」
「パパが入るのいやじゃなかった?」
「うん」どっちにも取れる答え方だった。
「髪が伸びたな。春菜の髪はママに似てまっすぐだな。」
前髪を切りそろえておかっぱにしている。
「春菜はママによく似てる。美人のママに似てよかったな」
「パパはママが好き?」
修一は春菜を見た。決して親をからかってしている質問ではない。真剣な顔で修一を見ている。
修一は「うん、好きだよ。」と答えると、「私のことは?」と春菜が小さな声で聞いた。
椅子に腰掛けた春菜の小さな頭が立ったままの修一の腰のあたりで小さく揺れる。いろいろな思いが込み上げてきたが、「大好きだよ」とだけ答えた。
修一はふと自分にもこんな風に問い掛けて答えてもらいたい質問がある、と思った。

つづく(次回は最終回です。)



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