安寧なんか欲しがりません

まだまだ、まだまだですよ~

父、母からもらったもの

父と母にもらったもの
この正月に実家へ帰ったら、母が体調を崩してすっかり弱気になっていた。八十七歳というのはすっかりおばあさんの年齢なのだと改めて思う。イメージの中の母は常に五十代で、母のそばにいる私はいつまで経っても十代後半の甘えん坊の末っ子であることを許され、ときどきはそれが義務のように感じることもなくはなかったが、大半は許される心地よさを甘受していた。その気分のままに帰省してみると、母の急な老いを目の当たりにし、実家の実権は兄の奥さんに移っていた。実家はもう嫁に出た私の家ではなく、嫁に入った人の営む新しい家庭の場となり、そこから嫁に出た姪たちを迎えるための実家になっているのだと遅まきながら痛感した。やっと気づいたかと兄のお嫁さんの立場なら思うところだろう。
 兄は下に私を含む三人の妹をもつ総領息子である。兄が結婚したいという女性を我が家へ初めて連れてきたとき、その女性がとても細くて弱々しく見えることが両親にとって不満だった。
 私たちの家族、特に女性軍である母と三人の娘たちは皆体が丈夫でパワフルである。兄も父もどちらかというと細身でおとなしげに見えるのとは対照的に女たちは全員ピチピチで元気でかしましい。母は同類のお嫁さんが欲しかったのだろう。一方兄にしてみたら、それこそうるさい女どもに囲まれ、圧倒されてきた恨みが、恋人を選択するときに意識的あるいは無意識的に正反対のタイプの女性を選ばせたのかもしれない。兄の恋人が母の気に入らないタイプであることは必然であり宿命であったのだ。
 多少は両親の気に入らないとはいえ、兄とその女性の結婚は成り、兄嫁であるY子さんは我が家の一員となった。体こそ細くて一見弱々しく見えるが内面はしっかりもので、兄は忽ちY子さんの「尻に敷かれる」状態となり夫婦は大変円満に今も仲良く暮らしている。
 自分の母親というのは客観的にはなかなか見られない。私にとっての母は、母親として素晴らしい人である。家事能力は完璧に近い。まず料理が上手。掃除も瞬く間にどこもここもぴかぴかに磨きたててしまう。ことに洗濯好きで母の手にかかるとどれもこれも真っ白にされてしまう。我が家では雑巾すらぼろぼろになるまで真っ白だった。体が丈夫でじっとしているのが嫌いなせいか主婦としては一級の能力を存分に発揮した結果だと思う。性格は明るく前向きで超楽天的。やや気性が激しいところが見え隠れしないでもないが家族がそのためにうんざりさせられるという場面は一度も目にしたことがない。
 母の母がとても激しい気性の持ち主で、その夫と互角にやり合わないと気がすまなく、母の幼い日の記憶は常に両親の諍う怒声で気が休まらないという辛さに満ちていたらしい。この記憶が母の本来の気性の激しさをかなり抑制しているように思える。
 目の当たりにした事のない母の気性の激しさをなぜ私が母の本来持っている性質であろうと思うのかというと、母の弟妹たちが皆そうだからである。母の弟妹たちは母の両親(祖母ばかりでなく祖父もまたかなり気性の激しい人だった)の性質をしっかりと受け継いでいるように見える。あるものは商売を成功させるというかたちで、あるものはたびたびの暴力沙汰というかたちで、あるものは兄弟間の諍いというかたちでその気性の激しさを見せてくれていた。とにかく母の弟妹たちは一般的な人たちではなかったことは確かである。叔父や叔母を見ていると母も本来は似たりよったりの性質を持っているのだろうと推測してしまう。けれど、母はまだ一度もそんな一般的でない本性を見せて私たちを驚かせたりしたことはない。それは母がその母親を反面教師にしたことと併せて父がとても穏やかな人だったからだろうと思う。父と母は静と動としてそれぞれがはっきりと全然違うタイプの人だった。
 父は幼いときに父親を亡くし、洗うが如き赤貧の中で育ったという。多分日本全体がまだまだ貧しかった時代の中でも最底辺を這いずり回るような生活だったのだろうと思われる。その時代のことをもっと父から聞いておきたかったと後悔するのだが、断片として私が父の口から聞いた言葉を書き残しておこう。
あるときTVのコマーシャルを見ていた父が(そのコマーシャルは生命保険会社のもので、年老いて豊かな暮らし振りの美しい老年夫婦が楽しげにダンスをしているというもの)、画面の中のにっこりと上品に微笑んでいる老婦人を指して、「お父さんが一番嫌いな日本人の顔や」と言ったのだ。その言葉は父の貧しかった時代に受けた屈辱的な記憶から発せられたものらしいと思えた。その老婦人に似た女性に深い心の傷を負わされるような出来事があったのではないだろうか。
 父は在日韓国人であった。戦前の日本でそういう出自の人間が当然のように味わったであろう屈辱については殆ど何も語ることはなかった。だから余計にそのなんでもないコマーシャルのシーンに漏らした父の、そんなに強くもない言葉が私には深く残っているのだろう。父は日本人のお金持ちの老婦人から忘れられないような屈辱を受けたことがあるのかもしれない。その屈辱は父のひどい貧しさゆえだったのだろうと私は想像する。なぜなら父の本質には他人から屈辱を受けねばならないような卑しいものはなかった筈だと私には思えるから。父はただ短く、「このコマーシャル、嫌いや」と言っただけだった。私がもう少し利発な子であったなら、この時にもっと父の話をせがんで私の中の父の言葉貯金を増やすことができたかもしれないのにと残念に思う。
貧乏の極致でさまようように暮らしていた父は北陸の片田舎で母の家族と出会い、人柄を見込まれてその一家の長女の婿となった。その頃母の家は祖父が多少の商才に恵まれていたこともあり、韓国人家庭としては裕福な暮らし向きだったという。
両親の婚礼写真がある。背広を着た父と韓国の民族服を着た母は、娘のひいき目かも知れないがなかなかの美男美女なのである。若き日の加藤剛と「キューポラのある街」のちょっとぽっちゃりした吉永小百合に見立てても、まあ、娘のひいき目だからと笑って済ませてもらえる範囲の美男美女ぶりなのである。雪深い北陸の寒村で妻を得た父の喜びをその写真の中に見いだそうとしてもなかなか難しい。加藤剛ハムレットを演じたらこうでもあろうか。母もまた思い詰めたような吉永小百合である。
 その後父と母は新天地を求めて北陸の田舎から京都へ出ることになる。父と母が京都に居を構えると母の弟妹達も姉夫婦を頼って次々と京都へやってきた。父はあまり一般的ではない性質を持った妻の弟妹たちの面倒をよく見、貧乏生活の中にあっても決して迷惑がらずに彼らをできる限り保護した。この父の行為については私自身が大人になるにしたがって、誰にでもできることではないということが徐々にわかっていった。父の特別に人情深い、誠実な人柄ゆえにできたことなのだ。
 これはつい先日の帰省の際に母の末妹から聞いた話なのだが、母の両親がその最晩年に北朝鮮に住む自分たちの長男(昭和三十年代に始まった帰国事業で一家で移住していた)の元へ行くことを望み、娘や息子たちの激しい反対にもかかわらず、死ぬ時は長男のそばで死なせてほしいという言葉に皆がその希望を泣く泣く聞き入れ、新潟の港からかの地へ旅発つときのこと。父はその義理の妹の肩を抱いて「お前の両親とのこれが今生の別れだ、覚悟しておけ」と言いながら義理の息子である父はその両親との別れに、その場にいた実の娘や息子たちの誰よりも激しく泣いたのだそうだ。そのときのをこの叔母は、あんたらのお父さんはほんまに優しい人やったんやでぇと語って聞かせてくれた。
 ある一面でこんなことも考えたことがある。父と母は対照的であり相互補足的な組み合わせであったのかもしれないと。 父は誠実でまじめでどちらかといえば世の中の片隅に追いやられるようなタイプの人だった。一方母は明るくて賑やかで精力的であるが少しがさつ、でも、絶対貧乏くじは引かないようなタイプの人。父は自分の持っている運の悪さのようなものが母によって救われていると感じていたのではないか。また母は母で一般的ではない自分のそれまでの家族の短所にうんざりしつつも自分の中にも確かにある一般的でない激しさを父のまじめさ穏やかさが抑えてくれていると感じていたのではないか。事実私の両親はとても健全で穏やかな家庭を築くことに成功したと思う。我が家を襲う嵐はいつも母の弟妹たちが惹き起こす問題から発生することばかりだった。
 十歳までを過ごした京都の壬生の家は貧乏長屋ながらそこは親鳥にしっかり守られた暖かな巣であったと私の心象の中の記憶に残っている。そこでの暮らしにつらい記憶は何もない。父と母が築いた家庭が素晴らしかったという証なのだとこの年になった私はしみじみと思い返すことができる。その長屋を出て、郊外に小さいながらも父は自分の家を建て、そこが父の終の棲家となった。
兄が結婚して四十五年。私が結婚して三十五年。実家の近くで暮らしていた兄夫婦が同居するようになって二十年。この歳月の間に父が逝き母は年老いていく。この正月に帰省してみると母の弱り方が一段と加速し、兄の奥さんがその分強くなっていたというわけだ。
 母への言葉の調子がきつすぎないかしら?
もう少し優しい物言いをしてもらいたい、などと小姑は思ってしまう。
「Y子さんはようやってくれてはるえ、お兄ちゃんが頼りない分あの人もあれくらい強うならんとやっていけへんのやろなあ」とほんのり笑いながら母は言う。
 実家を遠く離れて嫁いだ私が偶の帰省の折に見聞きする断片からの感情で安易に口出しなどしてはならないのかもしれない。兄が築いた家庭にも私の知らない歴史があるのだ。姪たちは二人とも父や母にとても優しかった。晩年ボケた父の食べこぼしたものを自然に自分の口の中へ入れることができるような孫たちだった。それだけでもY子さんには感謝しなければならない。今度の帰省の折にはきっと伝えようと思う。
 私にもし、人から褒められるような美点があるとしたらそれは全部父と母が私に躾けてくれたものだ。親の人生を肯定することはささやかな人生の主人たる小さき人間の出来うる偉大な仕事のように私は思う。母の明るさ、たくましさを私も受け継げているだろうか。